2022年7月4日
福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ③活版配属後の日々
1957年4月に毎日新聞に入社した直後の5月25日、すぐ前に読売会館が完成して、大阪のデパート「そごう」が開店しました。入口のエアカーテンとかX字状に交差する上り下りのエスカレーターなどが話題に。この年、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」が大ヒットしました。
ネットで「有楽町すし屋横丁」と検索したら「三友」が写っている写真が出てきました。当時の給料日は10日と25日。10日は基準外賃金のみ。給料日の夕方になると、3階の活版場入口には、つけ取りのねえちゃんやおばちゃんがウロウロしていました。
「週6日・10時間労働」でも楽しかった
活版の新米の仕事は小刷から始まります。文選やモノタイプからくる1段組の小ゲラや、植字からくるハコ組などを印刷して原稿と一緒に校閲へ気送管で送り、ゲラは政治面、社会面、地方版などの大組台まで配達するのが仕事。大刷は組版途中でぬれ紙をとったり、組みあがった1ページの紙面を大刷機で印刷する仕事。
表は、入社約2年後、58年入社の坂戸悦偉君らが来て、私たち6人は1年先輩の滝沢直幸、林武雄さんの2人の8人で大刷担当となった時の勤務表です。何と毎日2時間の残業が組み込まれた10時間労働で6日勤務。休日はずれているので、みんなが一斉に休めるのは休刊日(元旦と春秋彼岸の年3日)だけでした。それでも、今振り返ってみて、仕事が辛くて辞めようなんて考えたことはなかったように思います。
当時の雇用関係は、現在のような非正規社員(いやな言葉です。人間に正規・非正規なんてあるんでしょうか)はいませんでした。養成員として定期採用された私たちも、途中入社の人もユニオンショップですので、みんな社員=組合員となり、健康保険・厚生年金・雇用保険とも法律通りの運用がされていました。いつクビを切られるかという不安はありませんでした。
小刷、大刷を経て、組版課・植字に配属になったのは、1959年入社組が小刷に配属された同年7月ころでした。そして1961年5月に活版選出の青年部委員になり、以後、代表委員はじめ本部役員を経験しましたが、所属はCTS制作に移行するまで、組版課・植字、つまり活版植字工でした。
ここから先は長くなりますので、入社から小刷・大刷時代の写真を紹介します。
(福島 清・つづく)