随筆集

2022年7月7日

森浩一・元社会部長の「東京社会部、記憶の底から(4)」

警視庁「七社会」へ、捜査1課担当

画像
吉展ちゃん事件解決の立役者・刑事平塚八兵衛さん

 サツ回りの1年が過ぎて私は1961年(昭和36)年、遊軍となった。ほどなくして部長に呼ばれた。「警視庁に応援に行ってくれ」。捜査1課担当の山崎宗次さんが短期間入院するためで、すぐ遊軍に戻るのだと思っていた。山崎さんは元気で退院したが、キャップからは一言もない。ついに警視庁に居ついて約5年、牧内節男、藤野好太朗、道村博の3代のキャップの下で鍛えられた。当初のメンバーは記憶の底にこびりついている。

 キャップ牧内さん。刑事部捜査1、3課、鑑識課担当が道村博、山崎、森。2、4課担当は石谷龍生,新実慎八。公安、警備両部が高井磊壮、白木東洋。防犯部が開眞。交通部は高橋正賢。すごい先輩ばかり。多くを教わった。開さんと白木さんは紛らわしいのでオープンさん、ホワイトさんとも呼ばれていた。

 捜査1課の第1係(殺人捜査)は1号から6号までの6班が小部屋(捜査員の部屋、デカ部屋)に分かれ、1部屋に10人ぐらいの刑事がいた。事件発生に待機している部屋もあれば、捜査終了後の諸整理をしている部屋もあった。はじめのうち、このデカ部屋に入るのには相当な勇気が要った。腹を決めて、恐る恐る入った。顔と名前を覚えてもらわないことには、こっちは仕事にならない。

鑑識の神様からの教訓

 それに比べると鑑識課は大きな部屋で、あまり抵抗感なく出入りできた。鑑識課は現場から得た資料の分析等捜査の基本となる事項を扱うから面白いところでもあった。

 鑑識課に岩田政義さんという係長がいて、のちに鑑識課長になり、鑑識の神様と言われた人である。岩田さんの席に行っても何も言わない。1か月以上たっていたろうか。「もういいだろう。アッハッハア……」と高笑いした。解禁というわけだ。どうも、牧内キャップと岩田さんが組んで私を鍛えたらしい。夜回りでお宅にも行ったが、岩田さんはある時「現場百ペン意おのずから通ず」とおっしゃった。またある時、「モノからモノを聞け」とも。事件取材ばかりではない、以後に生きる言葉を私はもらったのである。自分の手帳に「鉄の忍耐、石の頑張り」(ゲーテ)を記していた私は、岩田さんの言葉を書き加えた。

忘れられぬ事件次々

 1、3課担当として取り組んだ事件は、捜査本部事件だけでも相当な数になる。時代の諸相を浮かび上がらせるような主な事件3件だけをしるす。

*吉展ちゃん身代金要求誘拐殺人事件。1963年3月、東京・入谷で村越吉展ちゃん(4)が自宅近くで誘拐され、身代金が要求された(5月、東京に隣接の埼玉・狭山で女高生誘拐殺人事件が起きた)。吉展ちゃん事件は2年余経って容疑者が逮捕され、入谷の墓地で吉展ちゃんは白骨体で発見された。参院選開票が始まっている中で早版から突っ込んだ。犯人逮捕までわたしたち捜査1課担当者も代替わりするほど捜査は長引き、厳しい取材だった。65年7月、取材担当6人(道村、山崎、堀越章、森、原田三朗、小石勝俊)に編集主幹賞が出た。「第一報から終始他紙を圧倒、事件急転解決に際しては速報、内容ともに輝かしい成果を挙げ」と表彰状に。

*ニセ千円札「チー37号」事件(1962年)。「チ」は千円札の千、37は昭和37年の37。偽札製造は国家に対する反逆罪。日銀秋田支店で発見され、以来関東を中心に280枚見つかった。米山貢司さんと取材にあたったが、米山さんの取材にかける執念に頭がさがった。取材は捜査3課や鑑識課と神経戦の様相。1973(昭和48)年11月、犯人未検挙のまま時効成立。

*爆発狂「草加次郎」事件(1963年)。上野署に「草加次郎」名で手製のピストル弾が郵送され、島倉千代子、吉永小百合、東横百貨店などに脅迫状が送られた。地下鉄銀座線電車内では爆発し10人重軽傷。騒ぎが拡大。未解決。

(社会部OB 森 浩一)