随筆集

2022年7月11日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(5)」

国鉄大事故続き、そして東京オリンピック

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右下のベッドに横たわる写真が大島さん

 警視庁捜査1課担当当時、1962(昭和37)年5月3日夜、国鉄常磐線の東京三河島で列車事故、死者160人。夜回りの途中、現場に向かった。真っ暗な中に死体、死体。この事故に警視庁は捜査本部を設置、1課第2係が捜査にあたった。原因究明には時間がかかった。夜回りの取材には列車のブレーキの構造、運転台のことなどを知らなければ話が聞けず、勉強に苦労した。

 この大事故で重傷を負った乗客に大島幸夫という青年がいて、病床で毎日新聞社会部記者の取材を受ける。大島青年は大会社に就職していたが、この取材がきっかけで毎日新聞入社試験を受けて合格。長野支局から社会部へ。大島君への取材者は中野謙二さんだったという。中野さんはのち外信部へ。

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三河島列車事故現場

 翌1963年11月9日真昼、国鉄東海道線・川崎の鶴見でまた大列車事故。死者161人。私はそのとき、右翼の大物田中清玄が東京会館正面でピストル3発撃たれて重傷を負った現場にいたが、デスクの指示で直ちに鶴見に向かった。見分けがつかぬ血塗られた死者のかたまり。すさまじい現場だった。(この夜、九州の三池炭鉱で爆発、死者458人)

航空機事故そして伊豆大島大火

 同年8月17日、伊豆諸島の八丈島空港を発った藤田航空4発プロペラ機(乗員3、乗客16人)が消息を絶ち、21日、八丈富士の中腹に墜落が判明。写真部員と社機で八丈島へ。

 1965年1月11日、伊豆大島の中心地、元町で火災発生。警視庁で泊り明けだったが、警視庁にはだれか出すからすぐに羽田にとのデスクの命令。藤野好太朗キャップや写真部員と社機で大島空港に向かった。567戸を焼いた「大島大火」である。

東京オリンピックと亡命

 1964(昭和39)年10月10日朝。前夜の激しい雨がぴたりとやんで快晴。私は警視庁公安部、警備部担当だった。世界は東西対立、自由圏と共産圏の対立が際立っていた時代だったから、オリンピックを機に選手役員、観客からの亡命者が出ると警戒、公安部は神経をとがらせていた。昼は警備、交通、夜は亡命警戒の夜回りの日々である。

 朝日新聞に抜かれた。何とか抜き返そうと懸命だった。警視庁に保護を願い出た外国人がいることをキャッチ、しかもアジアの選手らしい。調べつくし、夜遅く、外事2課の幹部宅に確認に行ったが、黙したまま。もう寝るという。首の動き、表情を読んで大丈夫だと判断、原稿を送った。1面左に大きく載って選手の亡命を抜き返すことができた。亡命事件は全部で7件も起きた。

日本共産党の分裂

 警視庁公安部公安1課は日本共産党の動向をマークしている(当時。現在は公安総務課)。日共の党本部は、部分核停条約の評価をめぐり、国会で条約に賛成した志賀義雄(衆)鈴木市蔵(参)を除名、さらに神山茂夫、中野重治、佐多稲子らを除名。党書記長宮本顕治らとの対立が激しくなった。ソ連共産党と中国共産党の対立、日共の中共批判公然化。共産主義は国際的に多様な局面にあった。

 日本共産党は一層分裂を重ね始めた。日曜日の朝、谷畑良三デスクから電話があった。あの件もう少し掘ってみてくれという。家に社の車が来た。新しい主張をしようとしている人たちを訪ね歩いた。共産党を除名された内藤知周のところで長時間話しているうち、自分たちの主張、方針などをまとめた文書を見せてくれた。夕方、社会部に電話、谷畑デスクに取材結果を報告すると、それで十分だ、上がって原稿に、という。

 原稿を書き始めると、12版から入れようとしたのだろう、谷畑デスクは本番デスクの了解をとって、1枚ずつひったくるようにして目を通し、整理部に渡していった。前日午後からのデスク勤務だったのに1日中待って原稿を見てくれたのであった。谷畑デスクはモスクワ特派員から社会部デスクになった人だから、共産党の国内外の事情に関し第一人者である。翌日、公安1課を回っていたら、「きのうはご苦労さんだったねえ」 ? みんな見張られていたのであろう。

(社会部OB 森 浩一)