随筆集

2022年7月14日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その21(前編) 谷中の清水と鶯の初音(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 上野動物園西側の崖下に沿って都立上野高校に通じる急坂がある。これを清水坂という。現地説明板にはこう書かれている。

 「坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。」

 『江戸切絵図』「東都下谷絵図」(尾張屋板、1851・嘉永4年)をみると、寛永寺の清水門は、清水坂上にある護国院(上野公園10-18)の北側に記されている。その西側は「松平伊豆守」(三河吉田藩下屋敷)になっているが、上記の説明によれば、この下屋敷の護国院に近い一画が谷中の清水谷と呼ばれていたことになる。

 『江戸名所記』は、この清水谷にあった清水の井戸の由来をこう伝えている。

 むかし、弘法大師が廻国修行の途中、谷中通りに差しかかると、一人の嫗に行き合った。嫗は水おけを頭にいただき、遠くから水を汲んで運んでいるところだった。大師がその水を乞うと、嫗はいたわしく思い、水を分け与えた。

 嫗がいうには、このところには水がない。自分は年をとり、遠くまで水汲みに出かけるのはたいへん苦しい。また年ごろ病を患い臥せっている子どもがいる。嫗が養っているが、暮らしはともしい。

 そこで、大師が独鈷で地を掘ると、たちまちに清水が湧き出た。その味わいは甘露のごとく、夏は冷ややかで冬は温かく、いかなる炎天にも枯れることがなかった。そして大師は自ら稲荷明神を勧請された。

 嫗の子どもをこの水で洗うと、病は速やかに癒えた。それ以来、この水で洗えば諸々の病も癒えずということがなかった。後に人家が建ちならぶようになると、この一帯を清水町と呼びようになった、というのである。

 1680(延宝8)年の『江戸方角安見図鑑』「丗一 東叡山寛永寺」をみると、上野寛永寺から谷中感応寺に通じる「谷中みち」(谷中道)がある。これが『江戸名所記』のいう谷中通りとみられる。

 この絵図を現在地図に重ね合わせると、谷中道は上野公園(旧寛永寺)西側の縁に沿って、谷中天王寺に至る都道452号(神田白山線)にほぼ該当することが分かる。

 清水坂を上ると護国院で、隣接して東京芸術大学がある。そこに都道452号との交差点がある。これを左折し北側に歩いて行くと、言問通りに行き当たる。交差点の右側に旧吉田屋酒店(上野桜木2丁目)がある。さらにまっすぐ歩くと谷中墓地入口に至る。ここで道は分岐する。右側は天王寺(感応寺)の参道である。左側が都道452号で、これをそのままたどると、三崎坂をへて、千駄木の団子坂に出る。

 この「谷中みち」を逆に南側へ向かうと、上野山内と「松平イヅ」(三河吉田藩下屋敷)の間に、「志ミづ丁ノあと」(清水町の跡)と記された「あき地」(明地)がある。そのすぐ傍に「イナリ」がある。これが清水稲荷明神で、弘法大師にちなむ清水の井戸はそこにあったとみられる。

 この清水町がなくなったのは、1661(寛文元)年に、この場所が上野東照宮の火除地となり、本所(現墨田区石原4丁目・亀沢4丁目付近)に町ぐるみ移転させられたからである。『江戸方角安見図鑑』に記された「志ミづ丁ノあと」の「あき地」というのは、この上野東照宮の火除地を指すものとみられる。

 三河吉田藩下屋敷は明治維新に新政府に収公されたあと、1872(明治5)年、その跡地一帯に谷中清水町が起立された。町名は弘法大師の清水の井戸に因むとされるが、町域はかつての清水町よりもはるかに広く、現在の池之端3、4丁目にほぼ相当する。(略)

 谷中清水町(旧三河吉田藩下屋敷)は上野山内から西側に下る傾斜地になっていて、その西端の低地を北西から南西へ藍染川が流れて不忍池に注いでいた。(略)根津にもやはり清水谷があった。根津の清水谷が向丘の崖下であるのにたいして、谷中の清水谷は忍が丘(上野)の崖下ということになる。

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護国院。谷中七福神の一つ。境内に祀られた大黒天像。上野公園10-18。2022.03.30

 三遊亭円朝の『牡丹灯籠』では、根津の清水谷を上野の夜の八つの鐘がボーンと忍ケ丘の池に響き、向ケ岡の清水の流れる音がそよそよと聞え」というふうに描写しているが、このせせらぎは藍染川に通じていた。それと同じように、谷中にあった弘法大師の井戸からあふれた水も、周りの湧き水や下水(したみず)を集めながら、藍染川に合流していたに違いないと想像される。

 折口信夫(釈迢空)は近代を代表する歌人の一人で、柳田国男とならぶ民俗学の先駆者であるが、関東大震災(1923・大正12年)のころ、谷中清水町に住んでいたことがあった。その折口の「東京詠物集」(『春のことぶれ』所収)に、次のような「根津」と題した短歌がある。

 道なかに、瀬をなし流れ行く水の
  さゝ波清き
 砂のうへかも

 「東京詠物集」は、大震災で壊滅的な災害を被った東京が、未だ復興の道なかばで苦悶する姿を点描した短歌集で、初出は、1926(大正15)6月から翌1927(昭和2)年6月までの『日光』(短歌雑誌)である。

 根津のあたりで「瀬をなし流れ行く水」といえば藍染川の外に考えられない。字面をそのままなぞると、うっかり見逃しかねないところだが、この歌を詠んだころに、藍染川がさゝ波立て、清く流れていたとは考えにくい。

 藍染川の暗渠化については、連載その12でも取り上げている。東京市が谷中・根津・千駄木地区の藍染川を暗渠化する工事計画を立てたのは1913(大正2)年である。工事の目的の一つは、藍染川による氾濫対策だった。

 タウン誌『谷中・根津・千駄木』第3号は「藍染川すとりーと・らいふ」と題して、藍染川の特集を組んでいるが、そのなかで、官庁に町ぐるみの請願を行ない、1918(大正7)年から排水工事を始めて、千駄木地区は1920年10月に暗渠化された、という住民の証言を載せている。

 それにたいして、『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』(編著・鈴木理生)は、藍染川(谷田川)は関東大震災後に暗渠化されたとも、不忍池に注いでいた流れを変更し、荒川に放水する下水道が昭和初期には開削されたとも書いている。

 埋立工事の完了年次について、双方の記述に4年か5年の差があるのが気にならないわけではない。しかし、仮に後者の鈴木理生説に従うにしても、折口信夫が「根津」の歌を詠んだ大正末から昭和初年には、藍染川が「さゝ波清き」状態で流れる景観はとっくに消失していたか、そうでなくとも風前の灯の状態になっていたのではないだろうか。

 最初の「道なかに」の後に読点がある。歌に句読点を用いるのは折口独特の表記法である。歌の流れに転調があることを読点で喚起しているのである。どういうことかといえば、「道なかに」は眼の前にある実景である。しかし、読点以下は、折口の心に浮かんだ過去の幻影に違いないのである。折口の脳裏に刻まれた忘れがたい憧憬といってもいいかも知れない。末尾の「かも」が詠嘆であるのはいうまでもない。埋め立てられ道路に変貌した藍染川をみて、折口は嘆き愁いているのである。この歌は失われた藍染川を追悼する挽歌ということになる。

 同じ「東京詠物集」に「増上寺山門」と題した二首がある。

 仰ぎつゝ
 都ほろびし年を 思ふ。
  このしき石に、涙おとしつ
 国びとの
 心さぶる世に値ひしより、
  顔よき子らも、
 頼まずなりぬ

 「都ほろびし」というのは1923(大正12)年の関東大震災のことである。それより3年か4年後に、折口は増上寺を訪れることがあった。山門を仰ぎながら、そのときの禍々しい出来事を思い出したのである。

 大震災の翌々日の9月3日、折口は1921(大正10)年に次ぐ沖縄および先島諸島への民俗探訪の旅行を終え、船で横浜港に着いた。その翌日、歩いて谷中清水町の自宅に帰るのだが、その途中、増上寺の山門あたりで、刀を抜きそばめた自警団にとり囲まれた。不逞朝鮮人が来襲して井戸への投毒・放火・強盗・強姦をするという流言が広まっていた。

 折口は40日あまりの長旅のくたびれた風体から朝鮮人と疑われたのである。「心(ウラ)さぶる世に値(ア)ひし」とはその出来事を指す。折口は『自歌自註』(1953年)のなかで、こう書いている。「(自警団の)その表情を忘れない」、「平らかな生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦事があるとあんなにすさみ切つてしまふ」。

 それよりこのかた、「顔よき子らも、頼まずなりぬ」というのである。頼むとは、信頼するの意味である。同じことを『自歌自註』では、「此国の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくなつてしまつた」とも書いている。

 谷中清水町の地名由来となる弘法清水の伝承については、これとよく似た説話が各地に散在する。もちろん作り話に違いない。この伝承で重要であると思われるのは、嫗が廻国の修行僧を最初から弘法大師と見抜いていたわけでない点にある。嫗は他国からたまたま訪れた正体不明のみすぼらしい僧侶を下にも置かないもてなしをしている。そこには旅する者は神や仏の身をやつした姿であるとする古代から連綿と続く庶民信仰の伝統が息づいていたように思われる。(以下略)