随筆集

2022年7月14日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(6)」

 1965年2月、日韓基本条約仮調印、6月本調印。ヴェトナムに沖縄から爆撃機B52発進。これに反対する激しいデモ取材に明け暮れしたあとに、5年ほど住みついた?警視庁担当から遊軍に移った。

 それ以前のことになるが、63年に大阪社会部長の稲野治兵衛さんが東京社会部長になって、稲野部長は大阪社会部から寸田政明さんを東京社会部に呼んだ。寸田さんは警視庁七社会に在籍し捜査4課(暴力団ウオッチ)を担当した。暴力団にめっぽう詳しい記者で、私はたくさんの関西暴力団の写真を見せてもらい驚いた。酒が強く、コップ酒をぐいっとあおって警視庁食堂から取り寄せた夕飯を食べ、夜回りに出て行った。

*社会部は取材チームを組んで「組織暴力の実態」を連載。反響大きく、稲野部長、佐々木武惟副部長、道村博、寸田政明、吉野正弘、山崎宗次の6人に社長賞、そして新聞協会賞を受賞した。

遊軍兼気象庁担当・台風と噴火の恐怖と地震と

 1965(昭和40)年後半、遊軍兼気象庁担当になった。お天気相談所であれこれ気象の話を聞くのは楽しかった。気象関係の書物を繰り返し読んだ。当時のことを記しておきたい。

 予報官も台風の進路予想を出すのはなかなか困難な作業で担当記者まで心を悩ました。大きな台風が接近しそうだと社会部と地方部、写真部は1日ぐらい前から、上陸が予想される地点、例えば伊豆半島とか房総半島のしかるべき地点に取材者を派遣し、待機した。今日ほど予報官から発表などない。まして、いまTVで見るようなコンピューター予報などは。だから、社に上陸地点の予想を伝えるのには神経を使った。房総の突端に配置したのに進路がずっと南や北だと、まるで自分の責任のような気がした。

 1965年11月、東京から南へ600キロ、鳥島が爆発噴火の恐れが出た。沖縄も小笠原もアメリカの施政権下だったから、鳥島は日本の最南端。島には気象庁気象観測員と避難小屋建設の作業員あわせて52人が滞在していた。この人たちを救わねばならない。横浜から島に向かう海上保安庁の「のじま」に乗船せよとのデスクの命令。急遽、写真部とハンディトーキーを持って横浜港に行き乗船。出港に間に合った社の記者たちも一緒である。記者のほとんどはひどく船酔いしたが、朝日の写真部員と私はそれほどでもなかった。暗くなり始めたころ、「のじま」は島から500メートルほどのところに停船した。

 乗船していた気象庁の諏訪彰火山課長が状況説明。「これ以上、船を島に近づけることはできない。暗い海に艀は出せない。もし島が爆発噴火すればこの船はやられてしまう。しかし、これ以上島から離れることはできない。離れたら島にいる観測員たちが自分たちは見捨てられたという不安と恐怖にさいなまれるだろう。みなさんも覚悟してもらいたい」。島の海岸線に信号の焚火がかすかに見えた。記憶の底にこびりついている一昼夜である。

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鳥島(2002年)

 まんじりともせず夜が明けると気象庁の観測船「凌風丸」が到着し「のじま」に接近、記者たちは縄梯子を伝って「凌風丸」に乗り移った。艀が何度も往復して52人を救出した。

 帰りはかなりの雨。船のマストにアンテナを縛り付け、ハンディトーキーで原稿を送ろうとするが、なかなかうまくいかない。船のファクスを借りての簡単なプール原稿だけ。船を降りても会社に帰りたくない気分で、自分への責めが残った。島は爆発を免れた。一連のこの動きは、やがて新田次郎が小説『火の島』にした。

支局にどんと大型編集車

 1966(昭和41)年春、長野県松代(現長野市)群発地震の応援取材で米山貢司さんと長野支局へ。ドーンと下から突き上げる気持ちの悪い地震だった。写真部員は風呂に入る時もカメラを出入り口に置いて瞬時に備えていた。社会部デスクだった末安輝雄さんが支局長で、支局にはやがて社会部員となる越後喜一郎、大島幸夫、堀一郎、堤哲、長崎和夫(のち政治部)君がいた。長崎君は市街地外れの皆神山のだったか、地震の地滑りに乗り、そのルポが社会面トップに。

 気象庁は大型地震になる心配をしていた。それに備え東京から大型編集車が来て支局に横づけした。さいわい地震はその後、沈静化した。

(社会部OB 森 浩一)