随筆集

2022年7月19日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(7)」

大学・成田空港・4件連続の航空機墜落事故

 遊軍兼気象庁担当としての気象関係は前回記した。この時の遊軍としてかかわったのは年間連載企画「人間形成 ある仲間」(週1回1頁、黒崎静夫さんと一緒の担当で、私は山形・最上川近くの農村青年たちの音楽グループ、築地魚河岸の早大出の仲買グループ「魚河岸稲門会」などを取材した)。さらに早大授業料値上げ反対闘争、初期のナリタ国際空港反対闘争(三里塚)そして連続して起きた航空機の大事故取材であった。

 1966(昭和41)年2月4日、札幌雪祭りの団体客を乗せた全日空B727型機が羽田空港に着陸寸前、墜落した。閉鎖されて薄暗い空港内を息切らせて現場に走った。遺体の捜索が続いた。もちろん大勢の社会部員が随所で取材にあたった。乗客乗員133人全員死亡。

画像

 この事故からちょうど1か月後の3月4日、カナダ太平洋航空(CPAL)のDC8型機が着陸に失敗、防潮堤に激突、76人中64人が死亡。

 その取材で羽田空港で夜を明かした翌3月5日、空港を離陸した英国航空(BOAC)のB707型機が富士山付近で墜落したとの情報が入った。デスクから写真部とともに社機で富士山付近の上空に飛び、現場を確認せよとの命令。『金星号』で出ようとすると、いや、待て、東京湾との説もある、とデスク。情報の混乱は無理もない、CPALの捜索に当たっていた海上保安庁の大型ヘリが墜落したのである。再度の出動命令。『金星号』には機長操縦士、整備士、写真部員と私の4人。窓外に目を凝らし富士山に向かった。

 富士の頂上あたりから旋回し下方に機首を向け煙らしきものを発見したとたん、『金星号』はグラッと揺れ、ドアがわずかに開いた。乱気流に巻き込まれたのである。死ぬ、と思った。ドア側の席にいた私が機内の太い針金だったかを体に巻き付け、写真部員がそれを引っ張る。凍傷を防ぐためレインコートを手に巻き付け隙間からドアを引っ張ったが、隙間は縮まらない。(ねじれていたのである。)

画像

 「金星号」=写真=は両翼を揺らし、機首をアップダウンさせながら、それでもなお飛行を続けている。首筋に冷や汗を垂らして操縦士も整備士も一言も発しない。海の方に向かっているように思えた。最終場面を海上にしようとしているのだろうか、海なら助かるのか。やがて東京が見え、後楽園の緑が見え、羽田空港が視界に入った。よくは覚えていないが、空港では一時、空港閉鎖し、着陸許可を出したようである。恐ろしい経験だった。操縦士の冷静沈着に感謝しかなかった。乱気流に巻き込まれた際、機体各所のネジがゆるみ修理には相当時間がかかったという。

 英国航空機はやはり富士山ろくに墜落していて、乗客乗員124人全員死亡。富士山特有の乱気流が原因と推定された。海上保安庁機は2人死亡1人行方不明(その時点)。

多くの取材者全員が身の危険に

 私は自分が危ない目にあったことを体験として長々と記したが、この連続航空機事故の取材は社会部員、写真部員、千葉や横浜、川崎支局員にとって、やはり身の危険を顧みずの取材であったことを強調しておきたい。

 社会部や支局は東京湾岸の釣り船を借りて海上捜索の取材をした。時に北西の風が強まる2月、3月初め、寒さと白波の立つ荒波のなかである。私たちの取材は危険と背中合わせのことがしばしばあった。のちの大学闘争、新宿の騒乱罪適用事件など都心でも激しい投石、ゲバ棒、火炎ビンの中での取材となった。

(社会部OB 森 浩一)