随筆集

2022年7月21日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(8)」

黒い霧を払え。次いで初の革新東京都知事

 航空機の大事故が続いた1966年の年末に衆議院の「黒い霧解散」があった。政界は多くの濁りを抱えていた。田中彰治衆院議員の逮捕をきっかけに「黒い霧」事件のキャンペーンが始まった。私も取材の一員となり政治という世界の闇の一端を知った。社会面連載企画「この霧を払え」の第1回は私が書いた『この顔4000万円なり』。総前文を吉野正弘さんが「背徳の風に乗って乱れ飛ぶ札束」と書いて、私はウーン、ウマイモンダナアと感心した。担当デスクは牧内節男さんだった。麹町寮にこもって原稿を書き続けた。

 12月27日衆院解散。翌年1月27日の衆院選で多党化が顕著となった。一連の「黒い霧キャンペーン」に対し、森丘秀雄社会部長・細川隆一郎政治部長に社長賞、そして新聞協会賞を受賞。

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 1967(昭和42)年春、社会部平野勇夫筆頭デスクに呼ばれ、4月の都知事選では革新陣営に注目していく必要があるようだ、革新側の動きを水面下で探ってくれ、と言われた。取材を進めるうち、やはり大変なことになりそうだとわかってきた。結論を急ごう。

 日本社会党(佐々木更三委員長)、日本共産党(野坂参三議長)、総評などが組み、大内兵衛ら東京大学経済学部出身の錚々たる学者グループが協力して東京教育大学の美濃部亮吉教授(経済学)を革新統一候補に担ぎ出す。これが明確になった時点で私は美濃部候補担当となった。自民、民社両党は松下正寿立教大学総長を候補に立て、たしか都庁クラブの永井康雄さんが担当した。

団地の主婦たち、そして銀座のビルからハンカチが

 選挙戦は中盤から美濃部有利が見えてきた。郊外の団地に選挙カーが入って美濃部候補が降り立つと周りは主婦たちでいっぱいになった。銀座通りを走って美濃部候補が手を振ればビルの窓が開いて(当時のビルは窓が開いた)身を乗り出した人たちがハンカチを振る。こうして東京都に初の革新知事が誕生した。私は都庁クラブのメンバーとなり、知事部局を担当した。知事の特別秘書には社会党などからのほかに岩波書店の『世界』編集部員の安江良介さんが就任した。安江さんとは同じ歳で、彼が『世界』の編集長を経て岩波の社長になってからも付き合いは続いた。囲碁が強い人だった。当時の東京都企画調整局長はその後作家として名をはせた童門冬二である。都庁クラブには1年いて、また遊軍となった。世情騒然としてきた。

 1968(昭和43)年6月。米軍ジェット機燃料輸送反対闘争で新宿駅は大混乱。電車が再三ストップ。10月の国際反戦デーでは線路上で火をたかれ、信号機が勝手に操作され、ついに騒乱罪が適用された。身の危険をひしひしと感じる現場取材で、多くの社会部員がどれほど危ない目にあったか計り知れない。

 全国の50以上の大学が、学費値上げ、学生処分、米軍の研究資金受け入れ、大学移転と様々な問題で紛争が激化。学生たちは外では成田・三里塚、東京王子の野戦病院、首相の東南アジア訪問阻止(羽田)闘争と勢いを増すばかり。医学部に端を発した東大闘争が深刻化、日大闘争がクローズアップされてきた。年末、東京・府中で3億円強奪事件。

(社会部OB 森 浩一)