随筆集

2022年7月26日

京都大学野球部OB、大阪社会部旧友・津田康さんとのコト

 京大「旋風」で終わらせない 野球部元プロの近田監督

 24日日曜日の1面トップ記事「迫る」は、京都大学野球部を大躍進させた近田怜王監督(32歳)のドキュメントだった。3面もつぶし、全文5404文字の長文だった。

 《就任1年目の近田監督率いる京大は今春、旋風を巻き起こした。昨秋に優勝した関西大、2位の立命館大から2戦先勝で得られる勝ち点を挙げ、「定位置」だった最下位を2年半ぶりに脱した。最終的に5位だったが、シーズン5勝は4位だった2019年秋と並んで現行リーグで最多、ベストナインにも過去最多の3人が選ばれた》

 《09年春から12年春には60連敗(1分けを挟む)を記録している》

 関西六大学野球リーグ戦のお荷物チームが、変貌したのである。

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津田康さん(『陽は舞いおどる甲子園』から)

 京大野球部OBで思い出すのは、大阪社会部旧友の津田康さん(ことし86歳)である。

 「村山実(関大→阪神タイガース、野球殿堂入り)と投げ合ったんだ」とよく言っていた。

 津田さんは、自著『陽は舞いおどる甲子園—高校野球青春論』(サイマル出版会1977年刊)に自らの球歴を披露している。

 中学時代、大阪府下の700余校の頂点に立った。サウスポー。8試合のうち7試合をシャットアウト。

 《新聞は「超高校級」と書いた》とある。

 ——“甲子園の星”になりたい。
 ——プロ野球に入ってお金をどっさりもらおう!

 大阪府立今宮高校に進学したが、甲子園出場の夢は果たせなかった。
 1956(昭和31)年、1浪して京都大学法学部に入学した。

 《入学した年から主戦投手だった。神戸大に2勝、京大は5年ぶりに5位になった》

 《村山実—上田利治(のち阪急ブレーブス監督。野球殿堂入り)バッテリーの関大とも2度に1度は互角の戦いをした》

 《京大4年間で5勝。負けは数えられない》

 1960(昭和35)年に卒業して神戸・川崎重工に就職。都市対抗野球大会にも出場し、2回戦日本ビール戦に先発、《2回を0点に抑え、その後四球を連発して1-9で敗れた。『先発津田はスピードもなければ、コントロールもない』と書かれた》と自嘲気味に書いている。

 そして翌61(昭和36)年に毎日新聞大阪本社に記者として入社した。

 津田さんと一緒に仕事をしたのは50年前のセンバツである。大会前日の開会式のリハーサルのあとの人文字は、第44回大会の「44」と、毎日新聞創刊100年の「100」を描き出した。

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毎日新聞1972年3月27日付朝刊1面

 大会期間中、阪神電鉄甲子園駅前にあった旅館「清翠荘」に泊まり込んだ。キャップ津田康、サブが私(堤)だった。担当デスクは、新任デスクが定まりで、事件記者の寸田政明(2003年没74歳)だった。

 私は、前年の8月に東京社会部から転勤となり、街頭班(サツ回り)だった。

 開会式で優勝旗を返還したのが日大三高のキャプテン吉沢俊幸(早大→阪急ブレーブス→南海ホークス)、選手宣誓は日大桜丘のキャプテン常田昭夫。

 そして優勝戦は、2連覇を狙う日大三高と日大桜丘の対戦となり、ジャンボ仲根正広(のち近鉄バファローズ、1995年没40歳)—常田昭夫バッテリーの日大桜丘が初優勝した。「優勝戦は神宮球場でやったら」と皮肉をいわれた大会だった。

 津田さんは、当時遊軍だったか。クルマ社会を告発する「くるまろじい」という続き物を社会面で展開していた。のちに『くるまろじい—自動車と人間の狂葬曲』(六月社書房1972年刊)として出版、第3回「新評賞」を受賞した。

 いつもボサボサ頭で、身なりは全く構わなかった。添付の写真は、受賞式のために正装していたと思う。

 このセンバツのあと、津田さんは高校野球取材を続け、『陽は舞いおどる甲子園』、さらに74年「さわやかイレブン」で準優勝の池田高校の蔦文也監督を取材して『池田高校野球部監督蔦文也の旅—やまびこが甲子園に響いた』(たる出版1983年刊)をものにしている。

 大阪社会部OB会の集まりで何度か顔を合わせたが、最近はご無沙汰している。

(堤  哲)