随筆集

2022年7月28日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(10)」

大学闘争拡大 東大闘争

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左は写真部加藤敬さん、中が森さん、右は鍛冶壮一さん

 1968(昭和43)年夏、東京大学で、反日共系学生が安田講堂を占拠した。あちこちの大学に学部校舎のバリケード封鎖、占拠が広がった。東大では全学共闘会議(全共闘)が結成された。東大と日大の闘争が最も注目された。このころ社会部長は谷畑良三さん。社会部に東大取材グループができた。キャップ高井磊壮、吉野正弘、森浩一、清水洋一、原田三朗、松尾康二、内藤国夫の7人で、うち5人は東大出身。東大・本郷の三四郎池から上ったところにある山上会議所が取材者のたまり場になり、やがて各社専用電話を引いて取材拠点とした。以後、半年以上にわたって東大通いが続いた。

 経過を追っていけば際限なくなる。医学部に端を発した東大闘争は、全学共闘会議結成、安田講堂封鎖、医学部本館占拠・封鎖、全学部無期限スト、林健太郎文学部長(のち学長)軟禁など全学に広がった。大学当局も教授会内で対立があり、学長の辞任やら加藤一郎学長代行(のちに学長)の選出。大学当局と学生の七学部集会、大衆団交。ヘルメットにゲバ棒、投石、火炎ビンの登場。闘争学生の派閥分裂、乱闘。何でもありの状態。

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写真裏に「東大時計台上 44年1月19日」のペン書き

背中のいちょうが泣いている

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 それでも「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」などという看板が出たり、軟禁された文学部長の夫人が着物姿で現れるという思いもしないことがあった。看板のコピーを書いたのは文学部学生で、のちに小説家、評論家として著名の橋本治だったという。大学闘争当時、かなりの学生たちが漫画雑誌「ガロ」を愛読し、白戸三平の「忍者武芸帳」「カムイ伝」等を好んでいた。

ついに安田城落城

 年が明けて1969(昭和44)年1月、学長代行は警視庁に機動隊出動を要請。1月18日朝、6000人近い機動隊が東大に入り、火炎ビンと投石で抵抗する学生を次々排除。最後はガス弾と放水を浴びせかけ、ヘリコプターに縄梯子。地上から空からと攻め上げた。攻防は日をまたぎ、19日になってようやく安田講堂が陥落した。機動隊の精鋭が講堂最上階の学長室に駆け上がる。機動隊の後を追って、鍛冶壮一さんと私が、トランシーバーを持ち、ヘルメット、マスク、防水のコート、長靴姿で階段を上った。書くのもはばかられるひどい現場だった。

 東京大学と東京教育大学の入学試験は中止と決まった。

 東大が一段落すると、京都大学でも入試中止になるかどうかが焦点になってきた。デスクから「京大に行ってくれ」と言われ、松尾君と京都に向かった。大阪本社の地方部、社会部、京都支局の取材陣に交じって仕事をするのには気を使った。京都では、ノーベル物理学賞の湯川秀樹博士とも親しい社会部の編集委員(科学)河合武さんがヒョイと現れて慰労してくれた。

 社会部員の多くが日大はじめ東教大ほか都内の多くの大学で総力取材だった。全国の大学闘争は、「大学臨時立法」が制定され、以後、次第に沈静化。

 2月25日、社会部長谷畑良三、副部長竹内善昭、警視庁キャップ佐々木叶、部員高井磊壮、二宮徳一、白木東洋、大橋久利、吉野正弘、牧野賢治、森浩一、清水洋一、松尾康二、内藤国夫、野口元、前田明、編集専門委員河合武の16名に編集局長賞。「新しい形式の軟派記事を産み出しオピニオンリーダーにふさわしい方向を切り出した」と表彰状に。

 その後、東大取材グループは『総討論 大学とは何か』の連載企画を始めた。1、2、3部構成の81回に及ぶ長期連載。これに対し11月26日、社会部副部長竹内善昭、部員高井磊壮、吉野正弘、森浩一、原田三朗、松尾康二、内藤国夫の7名に編集局長賞。「本社のイメージアップに資するところ大」と表彰状。

 高井さんと私などはこの後、来るべき70年安保に備えて「回転――安保60~70」の連載企画を始めた。

(社会部OB 森 浩一)