随筆集

2022年8月1日

福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ④南信日日新聞と父

 余談になります。活版工として先輩の父のことを書きます、父・瑛(てる)は、1909(明治42)年7月17日、長野県上伊那郡伊那富村(現辰野町)で父・茂十、母・よしの次男として生まれましたが、7歳の時母が病死し、9歳の時父も亡くなりました。親類衆が相談の結果、尋常小学校3年までは親類が面倒を見て、4年になったらどこかに住み込みで引き取ってもらおうとあちこち相談した結果、上諏訪町で当時、南信日日新聞を経営していた三澤慶十さんが住み込みの小僧として面倒をみてくれることになりました。

両親と死に別れ住み込みの小僧に

 10歳の4月、世話人に連れられて三澤さん宅に行ったところ、初対面の奥さまが「これは小さいなあ」と驚いていましたが、義務教育修了と徴兵検査までの約束で小僧生活が始まりました。1週間ほどは泣いてばかりいましたが、同じように年季奉公していた先輩に励まされて何とか続けることにしました。

 1922(大正11)年、高島尋常小学校を卒業すると朝から南信日日新聞の工場に入り、先輩から「解版、文選、大組」を教えてもらい活版工となりました。昭和に入ると南信日日新聞社は末広町に新社屋を建設。三澤さんも諏訪湖に近い湖柳町に新居を建設したので、そこから同じ住み込みの小僧たちと一緒に末広町に出勤しました。

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諏訪に帰省した時の小尾乕雄さん(右)と父。
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晩年に書いた自分史「往時茫々」。発行を手伝った

 その後、上諏訪町の至誠堂新聞販売店の息子で東京高師在学中、帰郷の際は新聞販売を手伝っていた、小尾乕雄さん(後年、東京都教育長となった)と知り合い、「トラオさ」「テルさ」と呼び合って交流を深めました。また三澤慶十さんの孫で後年、毎日新聞整理部副部長から発送本部長になった三澤祥貞さんが父のことをよく覚えていました。祥貞さんから父宛の手紙には「テルさは家族として私を大変可愛がってくれました」「私の母が『テルさは努力家で勉強者でねえ、よく役人になるための試験を受けていたよ。漢字をよく知っていて、新聞社一番だったんじゃないかね』と言っていました」とありました。

 有楽町時代、私が活版に入ったことを知った祥貞さんが職場に来て「テルさの息子か?」と言って、八王子の自宅に呼んでくれて、したたか飲まされました。

徴兵検査後、体調悪化で退職したが再就職

 1929(昭和4)年、適齢となったので、伊那富村で徴兵検査をうけ、丙種合格。翌1930年1月、晴れて年季が明け、三澤さんから報奨金500円と紋付袴をもらい、今度は月給50円で社員となりました。しかしこの年の12月、体調を壊して諏訪日赤病院に入院。肺結核初期と診断されたため南信日日新聞を退職。貯金で翌年から転地療養をしながら役人になるべく勉強し試験を受けましたがいずれも失敗。そこで1932年から再び南信日日新聞の活版工として働くことになりました。

内務省普通文官試験に合格、念願叶って役人に

 1938年、周囲からすすめられて中谷つきゑと結婚。同年12月に長男(清)が生まれましたが、役人の夢を忘れられず挑戦を続け、1941年ようやく内務省普通文官試験に合格しました。全国からの受験者2000余人のうち合格者は180人。長野県では27人受験して合格者は3人。「心中喜びを隠すことができなかった」と書いています。

 南信日日新聞を退職し、11月26日付で長野県庁へ赴任し「学務部社寺兵事課勤務・雇を命ず」。月給は45円。長女が生まれていて4人家族でした。

 こうして念願の役人となり、以降、1942年上伊那地方事務所、1944年諏訪地方事務所、1945年2月1日赤紙召集。8月25日諏訪地方事務所復帰、1948年同事務所厚生課長、1950年長野県庁児童課、1951年上伊那地方事務所、1952年諏訪児童相談所・児童福祉司、1967年退職、岡谷市つつじが丘学園就職、1978年同学園退職。2003年11月30日、94歳で死去しました。

 父の活版工時代はやむなく就いた仕事で、役人になることを目的に刻苦勉励したのだと思います。同じ活版工だったと言っても、父の努力と生き方には遥かに及ばないと思っています。

(福島 清)

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三澤慶十さんの胸像除幕式。上諏訪町末広町の南信日日新聞社前。1940年ころ