随筆集

2022年8月1日

名物コラム「黒獅子の目」が都市対抗野球紙面から消えた!

 2022年の第93回都市対抗野球大会の優勝戦は、ENEOS大久保秀昭監督(53歳)と東京ガス山口太輔監督(45歳)の前田チルドレン対決だった。

 2020年に野球殿堂入りした慶応義塾大学野球部の元監督前田祐吉さん(2016年没85歳)は、93年まで2度にわたり18年間36シーズンつとめた。エンジョイ・ベースボールでリーグ戦優勝8回。全勝優勝(引分け1)してストッキングに2本目の白線を入れた。

 大久保監督は91年度、山口監督は99年度のキャプテンだ。山口キャプテンのときは後藤寿彦監督(第50回大会で三菱重工業広島の補強選手として優勝。現朝日大学野球部総監督)だったが、後藤さんは前田監督葬儀の弔辞で「ノーアウトで走者がでるとすぐバント。それが3回続いたとき、こんな試合は見てられないと神宮球場をあとにしました」と話した。前田イズムを伝承したはずだ。

 そういえば今回の優勝戦でバントは一度もなかった。

画像
7月30日付朝刊「ひと」

 結果は、ENEOSが5-4で連覇を狙った東京ガスに逆転勝ち、史上最多の優勝回数を12に延ばした。日本石油時代から優勝戦では負けたことがない「不敗神話」を誇る。

 大久保監督は翌日の毎日新聞「ひと」で取り上げられた。小野賞も受けたのだ。

 ここからはちょっと因縁話になるが、「小野賞」創設は、小野三千麿さん(元毎日新聞記者)が58歳で亡くなった、1956(昭和31)年の第27回大会だった。その年、日本石油が藤田元司投手の活躍で初優勝した。ともに慶大野球部OBで、野球殿堂入りしている。

 日本石油は、2年後の29回大会で2回目の黒獅子旗を手にした。優勝監督増山桂一郎さん(慶大OB)に「小野賞」が贈られている。

画像

 ことしの都市対抗野球大会紙面で残念なことがある。名物コラム「黒獅子の目」が消えたことである。

 2017年に野球殿堂入りした鈴木美嶺さん(1991年没70歳)が始めたコラムで、「黒獅子の目」のカットがついた第1回は1961(昭和36)年7月30日の運動面だった。

 美嶺さんが書き残している。《大会の報道は試合を正面から取り組むのが本筋だが、都市対抗野球のもうひとつの顔を試合にからませて書けないものか——大会がここまで発展するまでの波乱曲折、あるチームが、ある都市が全盛を迎えるまでの先駆者たちの情熱と努力、野球人たちの興奮や感傷の交錯するグラウンド裏の人間模様などなど、あれこれ織り込んで歴史を伝えて行きたいものだが——と考えたのがはじまりであった》=「私と都市対抗野球」(『都市対抗野球大会60年史』)。

 そして定年を迎える最後の「黒獅子の目」1977(昭和52)年8月3日付をこう綴った。

 《いつもそうだが、決勝は別れの日だ。生い立ち、境遇、年齢、人生観。それぞれ違うひとたちが、都市のため、チームのため、自分のため、白球を追って、くる夏もくる夏も全精魂を傾ける。それだけになお決勝は残酷だ。

画像

  年行き星は移りなば
  若き血潮はもえざらん
  この世の春はかえるとも
  我が青春をいつか見ん
  ああ高殿に友と来て
  今宵は別れの宴なり
  面は笑みて歌えども
  心に泣ける我を見よ》

 結びは、美嶺さんが学んだ旧制八高で別れに歌う寮歌「春は日影」から2番を引用した。「ひどく感傷的だった」と結んでいる。

 昨年の92回大会は、東京オリンピック開催の関係もあって、12月に東京ドームで開催された。「準決勝戦2試合が行われた12月8日は、80年前に太平洋戦争が始まった日だ」と、翌9日付「黒獅子の目」にあった。

(堤  哲)