随筆集

2022年8月1日

森浩一・元社会部長の「東京社会部:記憶の底から(11)」

国会担当、そして沖縄の国政参加選挙へ

 1970(昭和45)年は安保条約改定の年。遊軍として大学問題に取り組んだあと、『回転――安保60~70』の連載を書いたが、天野勝文君の後を受けて国会担当となった。

 さいわいにも国会内外に『60年』のようなことはなく、いくつかのデモも平穏に経過した。70年問題よりも「プロ野球の黒い霧」が衆院法務委員会で大きく取り上げられた。また、日航機「よど号」ハイジャック事件が起き、山村新治郎運輸政務次官が身代わりになった問題や青年法律家協会にからむ裁判官訴追委員会がクローズアップされた。

 11月。沖縄の本土復帰を2年後に控え、それに先立って沖縄で国政参加選挙(衆院5、参院2議員)が行われた。10月、那覇支局の応援に三十尾清写真部員と沖縄に派遣された。

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パスポートとドル札持って沖縄へ

 沖縄はアメリカの施政権下にあり、政府発行のパスポートとドル札を持っての出張だった。機内で隣の席に座った人と言葉を交わしているうち、偶然にも衆院(自)の候補者と分かり、取材は機内から始まった。那覇空港上空では写真撮影禁止の放送。空港から米軍の戦闘機がスクランブルしていく、迷彩色の輸送機が駐機、ヴェトナムの戦場から運ばれてきた壊れたトラックのおびただしい量。これが今の沖縄だと気を引き締めた。長期取材だったので記すときりがない。2、3のことにとどめる。

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 本島の南から北、宮古島、石垣島のどこで話を聞いても本土復帰を喜ばない人はなかった。わずかに那覇の国際通りの電柱に選挙粉砕ビラを見たに過ぎない。ただし、選挙で衆と参の2票を入れるのはなぜか、よく理解できていない人があちこちにいた。無理ないことである。

 宮古島へYS11で渡る。サトウキビ畑の中の滑走路という感じであった。機には候補者が保革まさに呉越同舟。機を降りると候補者はシンパに取り囲まれ、もみくちゃだった。

 宮古島を回った候補者はそこからさらに離島の伊良部島へ定期船で渡る。船には穀類、お茶の葉、雑貨類が無造作に積まれ、そこへ選挙の七つ道具を持った候補者、運動員が乗り込んだ。伊良部島で運動をした候補者はチャーターした小舟で東シナ海を池間島へ。

「本当の日本人になったような」

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 11月15日投票日。雨。米軍の基地そのものの嘉手納村の投票所で投票を済ませた米軍雇用労務者が「これで本当の日本人になったような気がした」。涙が出た。80年、90年と生きたおばあさんが杖をつき、娘に手を引かれて投票所に来た。悪天候にもかかわらず投票率は87%を超えた。

 11月24日。私は国会玄関わきにいた。天皇陛下をお迎えするときか、特別な行事の日以外開かない国会中央玄関の扉が開かれた。沖縄選出7人の国会議員が赤じゅうたんを踏みしめた(25日、三島由紀夫が自衛隊東部方面総監室で割腹自殺)。11月27日、上原康助氏(社)が沖縄選出議員として戦前戦後を通じて初めて衆院本会議で代表質問をした。

(社会部OB 森 浩一)