随筆集

2022年8月4日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(12)」

3回目の遊軍、「夕焼け小焼け」で成田・三里塚闘争終結

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 1971(昭和46)年冬、札幌冬季プレ・オリンピックで札幌に。終わって社に帰り、4階のエレベータを降りて編集局に向うと、前方からヒゲをたくわえた大きな人が局を出てきて顔が合うと立ち止まり、いきなり「キミは森君か」。「はい」「ぼくは畑山です」。2月異動で大阪社会部長から東京社会部長になった畑山博部長だった。驚いた。

 新国際空港成田の空港反対闘争は主として三里塚を舞台にピークを迎えていた。ここは労働者・学生の闘争とともに「土地を奪われる」農民の闘争がメインに浮上していた。大学闘争とは質が違ってくる。三里塚へは何度か行ったが、いつの時点でどうだったか、よくは覚えていない。

 いくたびも多くの社会部員がナリタで取材にあたった。みんなが苦労した。

戦国映画のような砦「団結小屋」

 農民・学生は地下深く穴を掘って立てこもり、地上には戦国時代の映画で見るような砦を築いて抵抗した。これを「団結小屋」といった。第2次強制代執行のときだったと思うが、団結小屋の攻防で警官3人が死亡した。

 機動隊に攻められて最後の砦が落ちた時、抵抗者たちは穴を出て「夕焼け小焼け」の童謡を歌い、警官に連行されていった。社のヘリで現場に畑山部長が降り立った。

 12月、警視庁の土田警務部長宅に小包が届き、開けたとたん爆発、夫人が死亡、息子2人が負傷した。新宿伊勢丹前でツリー爆弾事件が起きた。東京のゴミ問題が深刻になり、美濃部都知事は「東京ゴミ戦争宣言」を出し、対策に乗り出した。ゴミも経済の高度成長の産物でもあった。

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 私はどうもあちこちに取材に回ること多く、翌1972年も同じであった。単独クラブなどを担当したたくさんの東京社会部員の中には、後々それぞれの分野で筆を立て、また学生諸君を指導してきた人たちがいる。

 1970年代、80年代は高度経済成長のヒズミが環境、公害、住宅都市問題などに顕著に現れてくる。また一方、交通が発達し、クルマ社会が広がることによって普通の人々に旅の楽しみが増えても来た。

 原 剛君は環境の専門家であり、早稲田大学の教授として、教室ばかりでなくフィールドワークで学生と接し、早稲田環境塾長を務め、活躍している。川名英之君は公害関係の著書多く、『ドキュメント 日本の公害』(全13巻)をものした。

 都市問題では、なんといっても本間義人君である。遊軍や都庁クラブで活躍。のち九州大学大学院や法政大学教授を務めた。労働関係では大橋弘君(のちに中部大学教授)。福祉・介護では坂巻熙君(のちに淑徳大学教授)や宮武剛君(埼玉県立大学教授・目白大学大学院教授)。司法の山本祐司君(社会部長)は「最高裁物語」(上下)などの司法関係で日本記者クラブ賞。

 楽しい方では国鉄ときわクラブを経た種村直樹君、堤 哲君。種村君は日本中の鉄道を乗りこなし、いまだに新聞でその手の記事を見るとき宮脇俊三氏と並んで名前が出てくる。

 まだまだ同様の元社会部員はいると思うが。

(社会部OB 森 浩一)