2022年8月10日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(14)」
西独ミュンヘンオリンピックは血塗られた
1972(昭和47)年、東奔西走のような年だった。第11回札幌冬季オリンピックから帰京するとすぐ連合赤軍「浅間山荘事件」で軽井沢へ。ついで「沖縄 いま帰る」の企画で沖縄に行き、今度は第20回夏季オリンピック西独ミュンヘン大会の取材であった。当時のオリンピックは冬と夏が同じ年に開催されていた。
美しい古都のオリンピック
ミュンヘン大会は8月26日開幕、9月11日閉幕のスケジュールだった。参加国、参加選手とも史上最高のオリンピックで、西ドイツは第2次世界大戦の過ちを詫び、復興し、平和な国へと生まれ変わっていることを世界に示そうとしていた。
事前取材と企画で、開幕に先立つ1か月ほど前に、写真部の仁礼輝夫さんと2人で羽田空港をたった。フランクフルトからバイエルンの古都ミュンヘンへ。まず街の様子を探った。尖塔や丸い頭の古い教会の数々。バイエルン王の夏の離宮ニンフンブルク城。ミュンヘン・オペラハウス。マラソンコースの下見に出ると、コースは緑したたる英国風公園の中を延々と続く素晴らしいコースだ。公園には人の姿もあまり見かけず、時折リスが顔を出し、ベンチの老夫婦がサンドイッチをゆっくり口に運んでいた。街中の、分厚い木のテーブルが並ぶ大きな大きなビアホールはいつもいっぱいだった。
東大闘争のとき農学部学生だった人がミュンヘン大学に留学していて、会って3年前を懐かしんだ。社会部からオリンピック担当の牧孝昌デスクが来て大会施設の準備状況を見て帰った。
日航に度々原稿を託す
仁礼さんと2人で取材していた時は、原稿は全部マス目の書きゲン、写真フィルムは未現像で、両方セットにし、空港へ運んでは日航経由でハネダに届くよう頼んだ。何度ホテルと空港を往復したことか。いまのようにパソコンがあったならばと思う。このオリンピックは、いままさに50年前、半世紀前のことになった。
開幕前、プレスセンターがオープンし、東京運動部の矢野博一、中沢潔、大阪運動部の長岡民男、写真部の鈴木久俊のみなさん、社会部の杉山康之助君、伝送課の大庭啓男さんが到着、取材送稿体制が整った。キャップは運動部の矢野さん。ボン支局から塚本哲也さん、ロンドンから小西昭之さん、モスクワから佐野真君が加わって、にぎやかになった。安心した。
開幕を前に、ミュンヘン・オペラハウスでIOC総会。ブランデージ会長は「オリンピックはアマチュアのためにある。商業主義は許さぬ」と札幌での主張を繰り返し、長い演説をした。持参のカセットテープに録音したので、アルバイトのベルリン大学留学生に翻訳してもらい、長文の原稿にした。20年間会長の座にいたブランデージ氏はこの大会を最後に引退した。この後、オリンピックは急激に商業化して、放送権料もまさにうなぎ上りとなった(ブランデージ会長退任後にオリンピックがどのようにして商業化し今日に至ったかかについては、スポニチに移ってから頼まれて東京女子体育大学で講義したことがあった)。
アラブゲリラ、選手村を襲う
開会式は、晴天下、華やかで楽しいものであった。日の丸を先頭に日本選手団は赤のブレザー、白のズボン、スカートで堂々とした入場だった。戦争で破壊された建物の残骸を集めて築き上げたオリンピックの丘が見えるメーンスタジアムを中心に、大会は順調に進んでいた。競技種目では、私は射撃や柔道を取材、写真も撮った。柔道の無差別級決勝でルスカ(オランダ)が優勝を決めた、その瞬間の写真がオリンピック面に載ったと連絡があったときは早く紙面を見たいと、うれしかった。
10日目を過ぎて9月5日未明、まだ熟睡中、東京からの電話でたたき起こされた。「選手村で事件らしいぞ!」。選手村へ走る。パレスチナゲリラ「黒い9月」がイスラエルの選手村を襲い、役員選手2人を射殺した。すぐに西ドイツ国防軍が出動、空港までの銃撃戦となり、死者17人。
大会は中止か延期か。情報は混乱した。ブランデージ会長は一時、大会の続行は困難ともらしたが、追悼式を行い1日延期で悲しみの中に再開した。「テロに屈しない」とのブランデージ会長の決断であった。
帰国して秋、私はサツデスクとなり、取材の第一線から遠ざかった。
(社会部OB 森 浩一)