随筆集

2022年8月15日

森浩一・元社会部長の「東京社会部、記憶の底から(15)」

ロッキード事件、社会部総力を挙げ大奮闘

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 1976(昭和51)年2月、ロキード事件が発覚した。直ちに大取材体制が敷かれた。

 その3月1日、社会部長竹内善昭さんが論説委員に、長く論説委員を務めた牧内節男さんが社会部長の人事異動があった。同日付けで私は社会部デスク兼警視庁キャップを命じられた。突然の異動で名古屋から急遽上京した。

 社会部のロッキード事件取材は、社内に事件を独自に取材する「ロキード班」、事件の本筋を捜査する東京地検特捜部を追う司法クラブ、検察捜査のワキを固める警視庁と国税庁を両クラブ担当がカバーする、そういう構図で進んだ。要人張り込みに関東地方の支局からの応援ももらった。もちろん、政治部、経済部も力投していたし、外信部もであった。

目の色が・・・

 このロキード事件では、当初私は、ここでは多くを述べる必要はないと思っていた。自分の歳も忘れて昨日のことのように思っていたことと、『毎日新聞ロキード取材全行動』(講談社)や『児玉番日記』(毎日新聞社)がすべてを語っていたからである。しかし、これらの書も店頭から消えて久しい。事件からすでに40数年という長い年月が経っている。最小限のことは記しておこうと思い直したのである。

 自らをドクヘンつまり独断と偏見という牧内社会部長のロキード事件にかける意気込みは、鍛え抜かれた往年の事件記者のそれであった。このように言うと96歳にしてお元気な牧内さんから、キミなに言ってるんだと叱られそうな気がするが。

 取材に携わる部員の目も最初から変わっていた。苦しい取材の中に、誰しも、前方に立ちはだかる深く濃い霧の中に、急峻な巨峰が隠されているに違いないと自らに言い聞かせ仲間と語り合って、取材に励んでいた。

組織挙げて

 事件取材は白木東洋さんが統括デスク。「ロッキード班」の取材全体を司法経験の愛波健君と捜査2課(汚職捜査)経験の澁澤重和君がまとめる。中島健一郎、板垣雅夫君たち多数が強力に取材を展開。事件の核心を握るとみられた児玉誉士夫のフォローに警視庁公安3課(右翼)担当だった堤哲、司法経験の才木三郎君が当たった。商社丸紅を堀一郎君がカバー。日米両国にまたがる事件なので英語にめっぽう強い中村恭一君、草野靖夫君もロッキード班に加わった。さらに米国上院外交委員会の議事録・資料の分析に吉川泰雄、寺田健一君。

 本筋を直接追う司法クラブ。山本祐司キャップ、勝又啓二郎、野村修右、高尾義彦の4君。そこへ司法経験者の橋爪順一、藤元節、大阪社会部の観堂義憲君が応援に。藤元君は渡米する検事を追ってアメリカへ。

 警視庁クラブは前田明サブキャップ、捜査2課の牧太郎、茂木和行、防犯(外国為替)の福永平和、古賀忠壱君たち。国税庁クラブは田中正延君に応援の武藤完君、鳥越俊太郎君。

 捜査とは直接関係ないが、三木内閣は不安定化し国会の動きも注目された。国会担当は加藤順一君で、応援に市倉浩二郎君。

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 ロッキード報道に勢いをつけた「児玉誉士夫、臨床取り調べへ」(3月4日)の特ダネは、主治医に密着した司法クラブ経験の才木三郎君の情報が決め手だった。東京地検、警視庁、国税庁はそれぞれ連絡をとりつつ独自の捜査、調査を展開する一方、児玉の家宅捜索ほかでは3庁合同で捜査にあたった。調査報道の進展に伴い、調査報道は捜査本筋の報道としばしば融合し、毎日新聞は外部から「ロッキードの毎日」と評されるようになった。読者と直接接する販売店のみなさんからの励ましもいただいた。

セミの鳴くころ、そして「検察、重大決意へ」

 社会部は多くのすぐれた記事,特ダネを報じつつ、報道合戦は「セミの鳴くころまでには」とひそかに言われていた夏、商社丸紅や全日空の元会長、社長、専務ら多数が東京地検に逮捕され、ついにその時が来た。

 7月27日毎日新聞は朝刊で『検察、重大決意へ』と大々的に報じた。東京地検特捜部に任意出頭を求められた田中角栄前首相は午前8時50分、外為法違反容疑で逮捕された。号外が街に躍り出た。

 さらに検察は佐藤孝行、橋本登美三郎衆院議員を逮捕。秋に丸紅ルート、全日空ルートとも捜査が終了した。

 8月4日。「ロッキード事件に関する一連の報道」に対して、東京編集局一同(代表社会部長牧内節男)に編集主幹賞が贈られた。またJCJ奨励賞も受賞した。事件が一段落した後で私はデスク専任となり、警視庁キャップは堀越章さんにバトンタッチした。

 1977(昭和52)年4月、ロキード事件で剛腕をふるった牧内節男さんが東京編集局長に就任、石谷龍生さんが社会部長になった。

(社会部OB 森 浩一)