2022年8月18日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(16)」(最終回)
1977(昭和52)年4月、牧内節男社会部長が東京編集局長になり、後任に石谷龍生さんが就任した。石谷さんは司法クラブのキャップも警視庁キャップも経験している知能犯関係の事件記者である。その昔、私が警視庁捜査1課担当のころ捜査2課担当のベテランだった。石谷さんの下で私は筆頭デスクとなり、部員の勤務表の作成や取材費、旅費などにもかかわっていた。その期間が短かったことや比較的世の中が静かだったせいもあるかもしれないが、世の中に生起した事柄を不思議なほど思い出せない。
しかし、石谷部長のもと、「ロッキードの毎日」はロ事件裁判報道に当然力を注ぎ、紙面の多くを割いた。その報道は精緻を極め、東京地裁法廷での直接取材にあたった勝又啓二郎、高尾義彦君たちの、論告や証言の一言一句を聞き漏らすまいと耳を澄まし表情を読む緊張は、この先長く続くことになる。
毎日新聞社再建へ
経営不振に陥った会社は再建策をめぐって労組と激しくやりあっていた。社会部の大住広人君が労組の執行委員長だった。会社は、新聞を作る新会社と資産管理や資金問題を扱う旧会社に分離して再建にあたることになった。ここに至るまでの労使双方の緊張感は相当なものであった。
1977年12月1日、新会社発足の日、大きな人事異動が発令された。その中で私は社会部長の辞令を受けた。編集局長室に呼ばれ、牧内編集局長と細島泉新編集局長からそれを申し渡されたときはギクリとし声も出なかった。牧内さんは「命令だ」、細島さんは「頼むよ」とおっしゃった。石谷社会部長は編集局次長になった。
苦しい状況の中で、みんな頑張った
会社の状況が状況だけに苦しいスタートだった。みんな頑張った。年末の一時金は極度に抑えられた。示された取材経費の額に部長といえども息をのんだ。当然である。要員減で多くの社員が定年を待たずに退職していった。残った社員が大多数だけれど、状況はみんな理解していたと思う。
その中で新聞協会賞
苦しいながらも、労使が合意した、編集の独立確保・編集綱領委員会設置を決めた「毎日新聞社編集綱領」に希望を見出し、取材に力を注いだ。
社会部は1980(昭和55)年2月、早稲田大学商学部入試問題漏洩事件を朝刊でスクープ=写真。詰めかける報道陣に早大当局がすべて毎日新聞に出ているとおりだと言うほどに、完全な取材だった。以後、事件はいろいろな経過をたどった。このスクープは新聞協会賞となった。チームによる組織的な取材と高く評価された。
それ以降、KDD政界献金事件をはじめ、1面トップで特ダネをしばしば放った。勢いに火が付いた。社会部員諸君があちこちの持ち場、担当部門で懸命に取材に心身を懸けた結果であった。新会社をつぶしてはならない、その心意気でもあった。
1982(昭和47)年9月、私は4年10か月務めた社会部長を離れた。先輩に多く教えられ、同僚や後輩のみなさんに助けられ、感謝しかない。後任は中部報道部長の白根邦男君。
ここまで私は、1960年、70年代の若干の時代の流れに触れながら、その時代の東京社会部の一員としての経験、体験を記してきたにすぎない。
時代は変わる。私は好んで時に平家物語や方丈記を紐解き、また、芭蕉の「不易流行」という言葉を思う。世の中は常に変化している。しかし変わるものと変わらぬものがある。「社会部」も同じであろう。87歳、老いの繰り言と思っていただきたい。
東京社会部はつねに噴煙をあげ、ときに大噴火する活火山のようだったという思いを抱きつつ、『毎友会HP』からの宿題を終えます。
(社会部OB 森 浩一)