2022年8月22日
茫々記「吉展ちゃん事件」異聞(1)
事件は人の仕業である。それに捜査や報道、ときには世論という仕業が絡んで、渦を巻く。渦の中で人間臭い物語がつくられる。それを劇的というなら「吉展ちゃん事件」ほど劇的な事件はない。
60年前のことである。いま語るとすれば<この事件とは>という注釈がいる。老兵の自慢話にならぬように書く。
1963(昭和38)年3月31日に事件は起きた。東京台東区入谷の小さな公園で遊んでいた当時4歳の男児(よしのぶちゃん)が姿を消した。自宅は公園のすぐ横だった。
2日後、犯人から1回目の脅迫電話がかかってきた。7回目の電話は4月7日未明。「いますぐ現金50万円を持ってこい」と言い、自宅から約300m離れた場所に現金を置くよう指定した。
捜査側の段取りとして、先ず変装した6人が現場に向い、あとから身代金を持った母親が車で出ることになっていた。ところが母親の車が先に出てしまった。6人は徒歩で追った。現金が置かれ、6人がその場に着くまで「空白の3分間」が生まれた。50万円は奪われた。母親の車の中に潜んでいた捜査員は「ただ乗っていただけ」になった。
失態はそれだけではない。決定的ともいえるミスが重なった。
➀脅迫電話は1回目(4月2日)のあと翌3日、4日と続いたのに、捜査本部が置かれ、報道協定が成立したのは5日。この間、所轄署を中心に電話はいたずらではないか、迷子あるいは事故の可能性もあるなど根拠なき憶測だけの時間が空転した。初動の遅れは驚くほかない。
➁身代金50万円は3日前から用意されていたのに、肝心な紙幣番号を記録しておかなかった。このあまりに初歩的な大ポカ。
身代金が奪われてから2週間後、捜査本部は公開捜査に踏み切った。失態の事実は一斉に報道され、脅迫電話の犯人の声がテレビやラジオで連日くり返し流された。
身代金は奪われ、愛児は帰ってこない。元気なのかどうかもわからない。悲劇の家族に日本中が同情した。この不条理に対する思いは、そのまま捜査に対する非難と怒号の嵐となった。国会でも厳しい追及が行われた。明治7年、わが国で最初の警察組織として発足し、自他ともに最高の捜査力を認められていた警視庁は信頼を失い、怨嗟の中で地に堕ちた。
時代は翌年に東京オリンピックを控えていた。無責任男が「スーダラ節」を唄うなかで地方から人の群れが奔流となって首都圏に流入していた。その労働力で「東京」は大改造され「Tokyo」に変貌した。「マイカー」という新語が生まれ、それに乗った人たちは自宅のモノクロTVをカラーに変えた。
そういう気分のなかで「吉展ちゃん事件」は起き、捜査は汚名を着たまま2年経った。
警視庁は1965(昭和40)年3月31日、捜査本部の大幅縮小を発表した。180人の捜査本部員はたった4人となり、「吉展ちゃん事件専従捜査班」と名称を変えた。だれもが未解決事件になると受けとめた。
(東京社会部OB 堀越 章)