随筆集

2022年8月30日

「我に一斑の恩義ありー―鈴木棟一を偲ぶ」山本茂さんの思い出

 東京オリンピックがひらかれる昭和39年3月、私は残雪の札幌駅を発った。上野駅は桜だった。迷いつつやっと有楽町の東京本社にたどりついた。ほうほうのていである。初めて紺のスーツが身にしっくりしなかった。私はひとりエレベーターで最上階まで上がった。東京というところを俯瞰したかった。屋上に立つと東京が一望できた。私は片足をぐいと格子にかけて「こいつを征服してやる」と呟いた。ものを知らないにもほどがある。世に俊秀はごまんといる。おぬしごときの凡才が、花の東京を征服できるはずがない。稚戯、笑うべしである(と今ならそう言える)。

 あまたある同期生の中にひときわ目立つ偉丈夫がいた。長身、広い肩幅、褐色の肌、切れ長の目はやや吊り上がって眼光が鋭い。後頭部が絶壁なのは典型的なモンゴル種だ。元寇の役、こんな奴らが博多湾岸に攻め込んできたのだろうな、と思った。ある日、当人に言った。「おまえを見ていると、先祖が蒙古高原からやってきたことがよくわかるな」。男はいささかも動ぜず「面白いことを言うね」と破顔一笑。その笑顔が石原慎太郎みたいだった。銀の匙をくわえて育ったであろう少年を思わせた。鈴木棟一である。

 自分とまったく異なる私が“北方の珍動物”のように見えたのか、親しげに接するようになった。「おい、昼飯を食いに行こうや」などと誘う。こいつ一体、何者なのか、と訝しかった。研修期間中に父親が急死したらしいことも知った。たまたま手にしていた弔文を覗くと「御令息様」とある。からかって「おお、御令息かい」。鈴木はまたも動ぜず「そういう風に書くもんだよ」とにべもない(私は礼節もわきまえない野蛮人なのだ)。父親は読売新聞の政治記者だと言っていた。ずいぶん早く実父を失ったことになる。兄弟のことは聞いたこともないから一人っ子なのだろう。どんなに大事に育てられたことか。彼の野放図な我がままぶりもそこから来ているに違いない。しかし、父親はかなりの傑物だったらしく、棟一は幼くして漢籍を叩き込まれ、意味も分からぬまま素読をさせられたと言う。おかげで長じても漢学の知識があふれるようだった。のちのことだが、私が他人とよくぶつかり合い、喧嘩することにいささか悩んでいると知った鈴木は「英気あれば圭角あり、だよ」と言った。その一言が自己嫌悪からどれだけ救ってくれたことだろうか。

 研修期間も後半になったころ、鈴木が中心になって「箱根一泊旅行」が企画された。親しくなった6人ほどで大涌谷の本社保養所に泊り、芦ノ湖まで土・日かけての旅である。いずれも私には初体験のことばかりだった。保養所では朝方まで喧々諤々の議論となった。60年安保世代のコミュニズムの洗礼を受けた私は勇ましかったが、根っからのナショナリストの鈴木も超然として怯まなかった。対立したとはいえ、何ほどのことがあろうか。どっちにしても、へなちょこの“理論”でしかなかったからだ。

 約50日間の研修が終わると、私と武藤完は青森支局、鈴木は名古屋本社の津支局(三重県)の配属となった。人事担当は、鈴木は見るからにタフそうだから、どこへ飛ばしても平気だろうと思ったのだろう。それっきりの別れとなったが、2年目の夏休みにひょっこり青森支局へ訪ねてきた。カンカン帽をかぶって、どこのお大人かと思うような素性不明の格好だった。三重県から長旅も苦にせずに「きみに会いに来た」と嬉しいことを言うのである。こいつ、ちょっと人恋しがるところがあるのか、と思った。早く父を亡くしたせいでもあろうか。入社1年もしないで結婚した我が新婚家庭で夕飯を食った鈴木は、深夜出航の青函連絡船で北海道へ渡って行った。万事にものぐさな自分にはできない芸当だった。

 私は田舎者ゆえ、怖いもの知らずだった。他者への敬意というものが乏しい。鈴木がなにかのときに「俺はコクリツ高校だ」と言っていたが、その意味を図りかねていた。そんな高校ってあるのか。のちに東京教育大学付属高校と知ったが、「それがどうした」と思っていた。考えてみればIQの高い大変な秀才だったはずだし、暁子夫人とは同じ書道部の部員同士だった。鈴木の博識、才知、図太さ、プライドはそうした自信からきているのだろう。「俺はコンプレックスなんて感じたことがない」と嘯いたこともある。優劣いずれにしてもコンプレックスのない知識人なんているわけがないが、あえてそう言い切るところに鈴木棟一の矜持があったのだろう。

 鈴木と私とは正反対の人間だが、運命はしばしば二人を邂逅させる。

 5年間の青森暮らしで心待ちしていた辞令が、名古屋本社整理部と知ってがっかりした。名古屋駅では鈴木棟一が出迎えてくれた。彼は1年早く津支局から転属していた。原稿が書けない内勤は不満のはずだが、そんなことはおくびにも出さず泰然としている。どんな不本意な環境でも嘆かず、明朗にふるまう棟一を大した根性だと思った。

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鈴木棟一(左)と山本茂

 棟一には少なからぬ恩義がある。春は蒲郡の潮干狩り、夏は福井県美浜町の海水浴に誘ってくれた。いずれも彼が勤務担当デスクに掛け合い、二人の休みを重なるように交渉している。押しの強さは天下一品だった。そのプランのままにお互い子供連れの家族旅行を楽しむことができた。棟一と暁子夫人が水着で手をつないだスナップを渡すと「どうだ、太陽の季節みたいだろう」と自慢した。青春映画のワンシーンのような若々しいカップルだった。その写真はいまも私のアルバムに残っている。

 東京整理本部、社会部を経て「サンデー毎日」へ配転になると、またも棟一が待ち受けていた。彼の左隣が私のデスクだった。不思議な縁である。鈴木は政治部に席を置いたままでシリーズ「永田町の暗闘」を執筆していた。ウイークデーはほとんど取材でおらず、締め切りの金曜日の夕、ネタをどっさり仕込んで席に帰ってくる。おもむろに靴を脱ぎ、床の新聞紙の上に足を乗っけると、猛然と書き出した。毎週、同じスタイルだった。

 たまに暇ができたときは、映画に誘われ、岩波ホールでギリシア映画『トロイの女』を観た。あまりの迫力に編集室に戻ってからも盛んに感心し合っていたら、八木亞夫編集長が「きみらは感心ばかりしてるなあ。感心屋か」と皮肉を飛ばしてきた。棟一は苦笑しながら「なぁに言ってんだ。俺たちは感受性があるから感心するんだよ」とやり返した。私も「そうだよ、感心できないやつは鈍感てことだ」と歩調を合わせると、八木さんはケタケタ笑っていた。いずれも懐かしい思い出の一齣だ。

 約10年間の九州女子大の教壇を降りて帰京すると、真っ先に歓迎の席を設けてくれたのも鈴木だった。「孟子曰く」と言い出した。「君子に三楽あり。父母ともに存し、兄弟故なきは一の楽しみなり。仰いで天に愧じず、俯して人に愧じざるは二の楽しみなり。天下の英才を得て、これを教育するは、三の楽しみなり」と流れるように言った。なるほど、しかし、俺は英才を教育できたか、いささか臆するものがあった。

 その後、何度か食事の席を設けてくれた。その理由は「われわれジャーナリストは偉そうな顔をしているが、実は近現代史について系統的に勉強していない。そこで教えてほしい」と殊勝なことを言う。ならば、と毎回、大東亜戦争に至る遠因や東京国際裁判の是非、戦争犯罪とは何か、スターリンの奸計、ルーズベルトの失政などについて語った。彼はメモしながら聞いていた。やがて何回かが終わったころ、私の過剰なばかりの太平洋戦争肯定論に辟易し始めたらしく、最後に「日本はワシントンまで攻める戦略なくして開戦すべきじゃなかった」と言い出した。それはトンチンカンな理屈なのだが、いったん言い出すと引かない男だけに放っておいた。二人の勉強会はそれで終わった。われわれは、いわば決別した。

 しかし、その後も鈴木からは律儀にも毎月、リーフレット『永田町リポート』が郵送されてくる。盆暮れには三越から中元・歳暮が届けられ、それは今夏までつづいた。友情は持続していたかのようであった。

 鈴木棟一が毀誉褒貶の多い男であることは承知している。彼の古めかしい“羽織ゴロ”的な挙措を良しとせず、権力を私用する生き方も好きではない。しかし、彼の内奥からあふれる英気がやや悲しく感じてはいた。鈴木家は旧紀州藩士であったと聞くが、むしろ雑賀衆鈴木氏の末裔の方がふさわしかろう。己れ自身ではどうにも抑制できぬ雑賀孫市の過剰な血のことである。

 鈴木は毎日新聞を最後まで愛していた。そのことを疑いはしない。そして私自身が彼には一斑の恩義がある。ゆえに追悼文を書かせてもらった。大きなやんちゃ坊主を巧みに御していた、あの利口な暁子夫人が数年前に先立たれていることを知って涙がとまらない。青春映画のヒロインのようだった。

 人生、生きていてナンボだ。死んで花実が咲くものか。棟一よ、安らかに眠れ。俺はまだまだ生きて花実を咲かせてみせる。そして、この生のつづく限り、おまえと生きた日々のことは忘れないだろう。

1964年同期入社 山本 茂(85歳)

 *鈴木棟一さんは8月11日逝去、82歳だった。