随筆集

2022年9月1日

福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ⑤太平洋戦争と活版工

 一昨年秋、NHK「趣味の園芸」編集長・阿川峰哉さんが、戦時中の毎日新聞広告局にいた祖父が保管していた資料を提供したい、と明珍美紀さんに連絡があったそうです。明珍さんの要請で、共同通信OBの丸山重威さん、毎日新聞外信部OBの永井浩さん、毎日新聞労組書記OBの水久保文明さんと一緒に、その資料を見せてもらいました。

 その中に、昭和20年4月4日付の「編輯関係職員録・毎日新聞社(東京)」と、昭和20年3月1日付の「毎日新聞社工務局人名一覧表」がありました(下記写真)。この2枚の名簿をコピーさせてもらってよく見ると、編集名簿には「南方新聞局」があり、「工務局人名一覧表」には、活版部6、写真製版部1、印刷部4の11人の「南方出張」者がいます。

 太平洋戦争中、東南アジアの「占領地」で新聞を発行していたことは、派遣された活版OBから聞いたことがあります。また2020年7月から伊藤絵理子さんが毎日新聞で25回連載した「記者 清六の戦争」の第19回に「マニラ新聞」のコピーが掲載されていました(下記写真)。ではどこでどのようにして活版刷りの新聞が発行されていたんだろうかと、少し調べてみました。

東日(大毎)は「マニラ」と「セレベス」で発行

 毎日新聞百年史392㌻に「10 占領地で新聞を経営」と題して以下の記事があります。

 「昭和17年10月、陸軍では南方占領地区の文化宣伝工作のため現地新聞の経営を内地の有力新聞社に委託することになった」。そして「南方陸軍軍政地域新聞政策要領」には「現地に設立せらるべき新聞社の担当地域は左の通りである。(イ)東京日日(大阪毎日)新聞社=比島(ロ)朝日新聞社=ジャワ(ハ)読売報知新聞社=ビルマ(以下略)」とあります。

 この方針に従って毎日新聞は「東西3社の精鋭をすぐって現地に派遣し、10月12日T.V.T新聞社の委託経営に着手し……11月1日からは「マニラ新聞社」として邦字新聞のほか英語、スペイン語、タガロク語の3新聞を発行……」となりました。

 続いて12月には、海軍軍政地域でも同じような措置が取られ、毎日新聞はセレベス(現インドネシア領スラウェシのオランダ占領時代の名称)、朝日はボルネオ、読売報知はセラム地域を担当しました。

 毎日新聞はマニラとセレベスを担当したことがわかりましたが、前記工務局人名一覧表にある「南方出張」の11人はどちらに派遣されたかは不明です。わずかに活版から派遣された6人のうち、小河原道春、高尾一男、小林松雄の3氏は、定年退職にあたって社報に書いた回想記に、セレベス時代のことを書いていますが、他の3人はありません。印刷部から南方に派遣され、後に役員となった長谷川勝三郎さんや、古川恒さんが、当時の社報か新聞協会の出版物に当時のことを書いているかも知れません。

 南方に派遣された工務局員は名簿で見る限り11人しかいません。11人だけで活版制作新聞ができるわけがありませんので、現地邦字紙の活版工や印刷工を指導して新聞発行にあたったのではないかと想像します。

南方に派遣された記者たちの苦闘

 一方、新聞記者たちの行動は「清六の戦争」で経過や実態が分かってきましたが、戦後レッド・パージで毎日新聞を追われた三上正良さん追悼集によると、三上さんは、ジャワの「大毎・東日バタビア支局」に派遣されています(下記写真)。これは陸海軍の要綱に基づく派遣ではなく大毎・東日の特派員でした。三上さんは「故国の皆さんへ 兵隊さんから慰問袋 ミルク・砂糖・純綿・革類・肉罐など 忘れませんぞこの真心」(昭和17年3月27日)などの記事を送ったとあります。

 工務局人名簿には「南方出張」とありますが、「編輯関係職員録」には、記事を送った記録がある社員の三上正良さん、マニラ新聞出向の伊藤清六さんはじめ南方に派遣された記者たちの名前はありません。伊藤清六さんは6月30日に餓死し「神州毎日」を発行した毎日新聞関係者は一人も生還できなかったと「清六の戦争」にあります。

 今になって、在職中に活版で指導を受けた小河原道春、高尾一男、小林松雄さん、そして毎日新聞再建闘争時に、日本ジャーナリスト会議事務局長だった三上正良さんに、当時のことを聞いておけばよかったと後悔しています。

 軍部の要請で占領地での新聞発行に協力したことの是非を含めて「戦争と新聞」についてはまだ調べるべきことがあると思います。

(福島 清・つづく)

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昭和20年4月4日付の「編輯関係職員録・毎日新聞社(東京)」と、昭和20年3月1日付の「毎日新聞社工務局人名一覧表」
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「清六の戦争」第19回が紹介している昭和19年10月9日付「マニラ新聞」。活版で制作されたことが分かる
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ジャワの「大毎・東日バタビア支局」前で、1942年撮影の写真。右端が三上さん)