2022年9月1日
茫々記「吉展ちゃん事件」異聞(4)
時間は容赦なく流れる。小原は落ちない。2週間と制限された取調べの期限は7月3日。その日がきた。警視庁刑事部は午前中に「小原捜査」をどうするかの会議を持った。ここで取調べの中止を決める。午後、捜査一課長が記者会見し発表した。
――本日をもって小原保の取調べを中止します。終了です。ただし、吉展ちゃん事件の捜査は専従班で続けます――
小原は再び「シロ」となった。
「取調べ中止」と課長が言った瞬間、多くの記者がボクに視線を向け、会場を出る何人もの記者が「おわった。終った」とため息のようなつぶやきを口にしていた。
テレビ・ラジオは速報を流し、夜のニュース番組は大々的に報じた。ちなみに翌朝の各紙は社会面トップで「小原はシロ 捜査は終了」「吉展ちゃん事件は迷宮入り」といった大見出しが躍った。毎日新聞は社会面3段で「事件捜査は続行」だった。
その夜、武藤宅を訪れた。前夜まであれほど群がった記者はいない。応接室で向い合った。ずっと引っ掛かっていることがあった。捜査が攻めていない感じがしていた。いくつもの傍証を束ねて補強した「ガチガチの事実」をふところにしていて機をみてたたみかける八兵衛流が見えない。これまで捜査側は、新事実はないと言ってきたが、あれは本音だったのか。密かな隠し玉を持たずに「火中の栗」に手を出したのか。そんなはずはない。
武藤は「結構、きびしい調べをしたんだ。だけど結果は発表どおりだ」をくり返すばかり。押問答になった。これ以上は取材ではなくなる。帰ろうとした。その時、電話が鳴った。午後10時を回っていた。武藤が受話器をとった。「ご苦労さまでした。いまお客さんだ」。それだけで切った。「いまの電話は……」「ああ、小原を調べた部屋などの跡片付けがすべて終ったという報告だ」。そんな報告を夜中にするわけがない。「小原になにかありましたね」「取調べは記者発表と同時にやめたよ」「課長の発表は本日をもってという表現でした。まだ、その本日の時間内でしょう」「それは理屈だよ。課長が発表したとおりだよ」「小原が落ちた」「そんなうまい話はないよ」「自供でしょう」「くどいな」。会話ではなく口論のようになる。「堀越さん、あんた、この50日以上ほとんど寝てないだろう。疲れているよ。私も同じだ。とにかく小原については終ったんだ。今夜はお互いゆっくり寝よう。もういいだろう」。仕方なく立ち上がった。
頭の中で武藤が口にした「いまお客さんだ」がぐるぐる回る。あれば<いま夜回りの記者がいる。あとでこちらから電話する>の意を込めた応答だったはずだ。このままでは帰れない。
門を出ると砂利道である。砂利を踏みしめ、ザックザックと靴音をたてて歩いた。70㍍ほどで広い道路に出る。曲り角を折れて20㍍ほど進む。靴を脱いだ。今度は砂利のない端をゆっくり逆もどりし、いま出たばかりの門をくぐった。右側に回ると応接室の出窓があり、その下に潜り込んだ。頭上近くに電話機があるはず。20分ほどたった。近くの植木がボーと明るくなった気がした。すぐに光の輪が照度を増した。懐中電灯が出窓の下に向けられた。「そこにいるのは、どちらさんですか」。なんとも丁寧な言葉づかい。武藤が立っていた。
「堀越さん……何度もくり返すが、取調べは終ったんだよ。拘置所の部屋をいくつか借りていたので跡片付けといっても時間がかかるんだ……その辺に車を停めてあるんだろう。そこまで送るよ」
深夜の砂利道を異なる思惑を抱いた捜査と報道が肩を並べて歩いた。(敬称略)
(東京社会部OB 堀越 章)