随筆集

2022年9月5日

茫々記「吉展ちゃん事件」異聞(5)最終回

 素直(すなお)は美徳である。が、事件記者にそれを求めるのは、お門違いというものだ。仕事相手である捜査員の言葉を額面どおりには信じない。疑い深く裏付けをして確かめる。性格が悪いと軽蔑されることもあるが、それが事件記者の稼業なのだ。

 7月3日夜、「小原捜査」の責任者である武藤三男の言葉も、記者の「業」が信じさせない。帰宅する車の中で決めた。明朝といっても数時間後だが、もう一度、武藤を打つ。

 7月4日朝8時。武藤宅を訪ねた。夫人が出てきた。「あーら堀越さんお早いのね。主人は出掛けたのよ」「どこにですか」「実はね、つい最近なんだけど親戚に法事があったのよ。でもあの騒ぎでしょ。行けなかったのよ。今日は日曜日だし、遅れ馳せながらお線香をあげに……そのおうちは千葉なのよ」。絵にかいたような内助の功に頭を下げた。数時間前に「お互い疲れた。今夜はゆっくり寝よう」と言った本人が、寝るどころかお出掛けだ。行く先は決まっている。やっぱりそうだった。疑念は確信になった。小原が落ちた。間違いない。近くの公衆電話に走った。道村キャップは電話口で言った。「わかった。すぐに落ち合う」

 小原保に対する捜査はこの日の夕方から一変した。「捜査終了」が「続行・新展開」になった。

4日18時40分   身柄を東京拘置所から警視庁に移す。
19時35分   誘かい、恐かつ、殺人死体遺棄容疑で逮捕。

5日2時40分   自供どおり東京荒川区南千住の円通寺墓地で吉展ちゃんの遺体発見。
4時20分   遺体発見の発表(中原総監)

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1965年7月5日朝刊1面左肩(トップは参院選開票結果)

 小原に変化が見え出したのは捜査一課長が取調べの打ち切りを発表した数時間後。事件とは直結しないことで小原が軽口のようにしゃべった<とても小さな事実>について「それ違うよ。こういう証拠があるんだよ」と指摘しているうちに、顔色が変わってきたという。犯行の大筋を認めた(自供)のは夜10時過ぎ。武藤が自宅応接室で受話器をとり、「いまお客さんだ」と言って切った電話は、小原自供を報告するものだった。また、4日朝、武藤夫人が台本を読むように口にした「千葉の法事」は、想像どおり武藤の振り付けだった。

 発生から解決まで2年3ヶ月の「吉展ちゃん事件」は土壇場の劇的大逆転で終る。捜査ミスの連続。公然の風説となっていた迷宮入り。あげく苦しまぎれのあがきとまで陰口された「小原捜査」が土俵ぎわの一瞬で「シロ」を「クロ」にした。

 テレビは番組を変更して小原の取調べ状況を終夜、リアルタイムで放送した。視聴率は60パーセントを超えた。長い間、警視庁捜査一課に向けられた怒号と怨嗟の声は、この夜が明けると称賛の拍手になっていた。

 この事件がいかに社会的関心を集めたか。象徴的なエピソードを紹介する。時の佐藤栄作首相は「小原捜査」に当った捜査員と刑事部幹部を官邸に招待し、「日本警察の威信を回復させた」として総理大臣表彰したあと盛大な祝賀会を開き、労をねぎらった。このような例はない。

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首相官邸で佐藤栄作首相と懇談する捜査員。左から武藤三男捜査一課筆頭課長代理、槙野勇刑事部長(後の警視総監)、堀越、佐藤首相

 また毎日新聞社は狩野近雄東京本社編集局長主催で祝宴会を開き、捜査一課長ら捜査員をレストランに招待した。

 茫々のベールをはぐようにして記したこの異聞。冒頭で「老兵の自慢話にならぬように書く」としたが、自慢話とは真逆、詰めの甘い事件記者落第記になってしまった。(敬称略)
おわり

(東京社会部OB 堀越 章)

 追記

 毎日新聞社が所属する警視庁の記者クラブは「七社会」という。通称で「ななしゃ(七社)の毎日」と呼ぶ。当時のメンバーは以下のとおり(カッコ内は担当)

 (キャップ)道村博(二課)桜井邦雄・今吉賢一郎(防犯)篠原治二(四課)寸田政明(交通)鳥井守幸(公安・警備)森浩一・原田三朗(一・三・鑑識)堀越章・小石勝俊。小原捜査の担当は堀越・小石に加え森・原田を投入。当初から4人体制とした。これが効率的に機能した。