随筆集

2022年9月14日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その21(後編) 谷中の清水と鶯の初音(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 地名は大事である。その土地の埋もれた歴史を掘り起こす糸口になる。

 私の生まれ育った集落の地名は小沼という。別称があり、シギダともいう。

 家の前から太平洋が見渡せる。海までは800メートル弱の距離。正面には伊豆大島が間近にせまり、西側には伊豆半島が横たわる。いまは耕作放棄地が歯止めもなく増えつつあるが、起伏のある斜面に拓かれた不定形な畑と棚田の景色は子供心にも美しかった。その奥に低い砂地の丘陵が続き、その丘陵のさらに奥に白い波頭が見え隠れする。

 小沼という地名は、海岸の近くに沼があったことによるらしい。そこを開墾し水田に変えたのである。別名のシギダは、念仏講の教本などでは鴫田と漢字を充てている。シギは水辺の渡り鳥である。遠浅の砂浜をハマシギが群れをなして乱舞するのをよくみかけた。海辺の田んぼでシギの仲間が遊んでいたとしてもおかしくない。田植えの時期は水辺の鳥類が渡ってくる季節とかさなる。

 海岸まで約200メールの東西の端に両墓制の埋め墓(タチューバ)と弁財天があった。そこが昔の海岸線らしい。その奥の丘陵は、いつのころなのか分からないが、大地震による隆起だといわれる。そのあたりの畑は土壌が砂地で、形が規則正しい短冊形になっている。村の言い伝えによれば、明治か大正のころ、村中総出で開墾し、それを均等に配分したとのことである。

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三埼坂。明王院門前の長屋。1階を店舗に改造している。台東区谷中5-4。2022.03.30

 話をもとに戻そう。谷中には谷中清水町のほかにも、実に興味深い地名がある。その代表格が谷中初音町である。これも明治に作られた旧町名である。谷中初音町(1-4丁目)は、現在の谷中(3丁目、5-7丁目)にほぼ相当する。

 JR日暮里駅から谷中方面に向かうと、線路を超えたすぐ先が御殿坂である。この坂道を進んで行くと、道が二又に分れる。まっすぐ進むと、夕焼けだんだんの石段がある。そのすぐ先が東京下町の観光名所として人気のある谷中銀座である。 こちらの道ではなく、二又の左手にあるひっそりした坂道に入る。これが七面坂で、江戸時代からの旧道である。坂を下ると長楽寺が左手にあり、その先のT字路を左折すると、右手に宗林寺がある。それより先は緩やかな下り坂がしばらく続く。これが六阿弥陀通り(六阿弥陀道)で、およそ400メートル先の三埼坂(大円寺)で、都道452号・白山神田線(谷中道)に合流する。

 六阿弥陀通りの途中に、都立岡倉天心記念公園がある。向いの路地に谷中初四会館(谷中初四町会会館)がある。またこのあたりには、区立の公民館や図書館が置かれ、初音の森という防災広場も併設されている。谷中初四会館の初四は、この地域の旧地名である谷中初音町四丁目のことだろう。防災広場の初音もこの旧地名に因むに違いない。

 そんなことから、谷中初音町四丁目について『日本歴史地名体系13 東京都の地名』で引いてみると、思ってもみなかったことが書いてある。

 安政三(1856)年の尾張屋版切絵図では大円寺の北に「御切手同心」と明示されている。町内に鶯谷とよばれる所があり、初音町の名はその鶯の初音にちなんだといわれる。鶯谷は七面坂から南、御切手同心屋敷の間の谷で、この鶯谷へ下る坂を中坂といった(御府内備考)。

 そこで今度は、同書のいう「安政三(1856)年の尾張屋版切絵図」、すなわち『江戸切絵図』「根岸・谷中・日暮里・豊島辺図」を見てみる。

 絵図の東南側に「東叡山御山内」が描かれていて、その北西に「天王寺」(谷中天王寺)がある。天王寺北側の道が御殿坂である。道を隔てて「本行寺」・「経王院」(経王寺)。そして御殿坂と諏訪台通りが交差する斜向かいに七面延命院(延命院)がある。七面坂の名はこの寺院に因む。

 『御府内備考』は幕府の手になる史書で、1829(文政12)年に完成した。同書のいう中坂というのは、七面坂下の「宗林寺」・「長楽寺(長明寺)」から「御切手同心屋敷」に通じる坂で、現在の六阿弥陀通り(六阿弥陀道)のことである。「御切手同心屋敷」の「切手」は通行証のことで、江戸城の切手御門で大奥への出入を監視する下級役人の組屋敷が谷中にあったのである。

 『江戸切絵図』で六阿弥陀道をたどると、「宗林寺」と「御切手同心屋敷」の間に田地(百姓地)がある。『御府内備考』のいう「七面坂から南、御切手同心屋敷の間の谷」とはこの田地のことをいうのではないかと思われる。六阿弥陀通りと併行する形で、西側の低地を流れていたのが藍染川で、先にも書いたが、現在のよみせ通りがその流路跡になる。

 『谷中初四町会』のホームページによると、谷中初四会館が建っている場所は、切手同心の組屋敷跡であるという。上記のように、都立岡倉天心記念公園が六阿弥陀通りに向かいにあるが、ここは『江戸切絵図』では「酒井甚之介」と記されている。あるいは鶯谷と呼んでいた範囲にこの武家地も含まれていたのかもしれない。

 というのも、鶯谷については『江戸砂子』にも言及があり、同書は鶯谷の範囲を『御府内備考』よりもっと広く捉えているからである。

 〇鶯谷 溝口家下やしきの向。寺院七ケ所ある谷なり。いつのころにや、東叡山の宮より京の鶯数多放させたまふは此所なりとぞ。いまに至て音色すぐれたりといふ。

(以下略)