随筆集

2022年9月20日

元西部本社編集局長、篠原治二さん(91歳)から 茫々記「吉展ちゃん事件」異聞・番外編続報

他紙との競争にとどめを刺した遺体発見のスクープ

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円通寺の写真が掲載された1965(昭和40)年7月5日朝刊社会面

 もう一つ、私が放った特ダネ、吉展ちゃんの遺体発見のニュースは、一連の毎日報道の勝利に花を添えるものであった。そのことには一切触れずに、9月のはじめ私は堀越章さんに手紙を出した。

 ただ、あの頃が懐かしいとだけ、書いた。ところが、堀越さんはちゃんと覚えていてくれた。すぐに返信があった。

 「あの日、篠さんが下谷方面のお寺に片つぱしから電話をいれ、円通寺につながったとき、住職の奥さんが、『いま吉展ちゃんの遺体が、うちの墓地から見つかりました』と答えてくれた。これが大特ダネになりました」

 堀越さんの手紙は、冒頭こうであった。

 あの日とは、小原保が自供をした昭和40年7月4日である。私は、たまたま警視庁クラブで宿直をする日に当たっていた。防犯担当という地味な持ち場であり、堀越さんら捜査一課担当の若手の活躍をいつも横に眺めていた。

 遺体が出た場所を「エンツウジらしいよ」と囁いてくれたのは、防犯部の部長刑事、通称荏原の人である。スパイ合戦みたいに、そのようなコード名で呼んでいたが、警視庁のどこでひそかに会っていたのか、記憶はぼけていて思いだせない。

 急いでクラブに戻り、道村博キャップに報告すると、電話作戦が始まった。なんと、エンツウジとう名前だけで20か30カ寺あるのには驚いた。運よく10箇所もいかぬうちに、南千住の円通寺にであい、しかも住職夫人との会話は、何者かによりさえぎられた。

 きっと、捜査官が横にいて、打ち切ったのだ。

 「キャップ、間違いありません」

 堀越さんの手紙は続ける。

 「以後、同寺の電話は『話し中』となって通じなくなりなり、寺の周辺は機動隊が封鎖したため、他社は明け方、4時過ぎの発表まで手が出ない、忘れられない篠さんのホームランでした」

 私は、畏友、堀越さんに褒められたことが、この年になってもたまらなく嬉しい。

 電話で突き止めたのは、4日の夜7時ごろと記憶している。少なくとも早版だけは勝ったつもりだ。「シロ」から「クロ」へと揺れ動いた2年3ヶ月の報道をみて唸ったことは、道村キヤップの緻密さと粘っこさだった。かつて、捜査一課担当の名記者といわれた人だったが、二課をやらせても成功したであろうと思っている。

 これらの茫々の記には、いまにつづく後日談がある。若き日の堀越記者が、あるときは家の床下にまで潜りこみ、真相を追求した捜査責任者、武藤三男氏はその後、捜査一課長になり、さいごは警視庁参事官までものぼりつめ、亡くなる。

 その長女の結婚では仲人までつとめ、武藤氏が亡くなったあとまで家族ぐるみの付き合いが続いているそうだ。かつて、夜回りの記者へむけ「父を寝かせてください」と門柱に張り紙をしたあのお嬢さんたちも、孫をもつ初老の主婦になった。

 「思えば長い時間が経ちました」と、堀越さんは手紙に書いていた。

(東京社会部OB 篠原 治二)