随筆集

2022年10月3日

福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ⑥日本の労働運動と活版工

 活版工は日本の労働運動にどのように関わってきたでしょうか。「新聞労働運動の歴史―新聞労連編」(1980年大月書店刊)は、「序章 新聞労働運動の黎明―戦前の先駆的な闘い」「1、新聞のはじまり、労働運動のおこり」の「近代的労働運動の誕生」で以下のように紹介しています。

暗黒の時代に「活版工組合」があった

 前世紀(1800年代)の末期、日清戦争後にはじまった産業革命の急激な展開に伴って、日本でも資本の集積集中と階級分化が進行し、近代的な労働運動が現れた。明治初期から労働者の大衆的な騒擾や反抗、ストライキはおこっていたが、これらの闘争はまだ散発的で自然発生的なものにとどまっていた。近代的な労働組合の組織化をめざして「労働組合期成会」が結成されたのは、1897(明30)年夏のことであった。

 期成会の創立者はアメリカ帰りの高野房太郎(横浜の英字新聞記者)、片山潜(活版労働者出身)らであった。キリスト教人道主義の彼らに、労使協調の立場のものも加わった期成会は、労働者の示威運動、各地への遊説、工場法案の促進、消費組合運動などをおこなったが、とくに力を入れたのはその名が示すとおり、労働組合の結成をめざす運動であった。期成会の努力によって、鉄工組合(砲兵工廠と鉄道工場を主力とする機械金属労働者の組織。1897年12月)、日鉄矯正会(日本鉄道株式会社=現・国鉄東北本線の鉄道労働者の組合。1898年4月)、活版工組合(1899年11月)があいついで結成された。

 活版工、印刷工の組織化は1880年代から早くもはじまり、1884年、89年、90年(「活版工同志会」結成)とあいついだが、いずれも失敗に終わり、やがて日清戦争を経て社会運動が高揚をみせはじめた1898年(明31)2月に東京本所・深川の活版工、印刷工による「懇話会」(発起人が解雇されストライキをおこなったが、やがて消滅)、同年8月の東京の印刷労働者による「活版同志懇話会」の結成をみた。

 活版同志懇和会は、秀英舎(大日本印刷の前身)社長・佐久間貞一ら資本家の援助もあって順調に組織をのばし、翌99年(明32)1月2日に会員2000人の「活版工組合」へと発展した。(略)彼らの1日10時間労働制、残業割増賃金などの要求とたたかいは、「労資の調和」をうたった創立の理念と対立するようになった。やがて資本家の組合抑圧がはじまり、治安警察法が成立した直後の1900年(明33)5月には「規約の運用停止」を宣言して事実上の解散をみるにいたった。(略)

 労働組合運動にとって暗黒の時代に、新聞の印刷労働者、記者らの先進的なたたかいがみられた。

活版労働者だった片山潜

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 期成会創立者の一人・片山潜は「(活版労働者)」だったとあります。そこで「自伝 片山潜」(1954年岩波新書)で調べてみました。

 片山潜は1859(安政6)年12月2日岡山県生。父母は水呑百姓。19歳で片山家養子に。1881年23歳、岡山師範を中退して上京し活版工に。1884年26歳、渡米。1921年63歳、コミンテルンの幹部となり、日本共産党結党の指導を行った。1933年11月5日、モスクワ市内の病院で敗血症 のため死去。満73歳。

 以下、活版工当時のことを要約して紹介します。

 1881年、予は成績優秀で岡山師範で級頭になったが向学心抑えがたく上京した。しかし頼った友人があてにならず、懐中が寂しくなったのをみた下宿の主婦が「今活版屋に口があるから行って働いてみませんか」と言ってくれ、この日から活版所の労働者となった。

 活版所は「績文社」と言って、銀座鍋町にあり、煉瓦造りの西洋館2階建ての大きな建物で、2階が活版、1階が印刷所だった。房州からきた夫婦が経営し、文選は7、8人の子ども、植字工2人、印刷工は2人の子どもと紙取り兼インキつけの2人。職工長は鈴木さんという熱心な老職工。主人は校正を担当してした。

 最初は活版印刷機の車回しの仕事だった。文選の小僧どもは印刷の小僧をバカにする風があった。予は田舎者ではあるが、暇な時は何時でも書物を読んでいた。それを見た工場主の妻君が文選へ廻してくれた。ところが炭焼、木樵夫、鋤鎌を持ち馴れた予の手には活字を取り扱うのはなかなか困難であった。それに活字の在り場所が容易に覚えられない。論語、孟子、文章軌範位読んだ知識では知らない字が沢山ある。わずか10か12の子供が予より遥か早く字を拾う。予は活字拾いとなって異常なる苦心をした。(略)

 暫くの間の活版屋の生活は予にとって多大の経験で、後年労働運動をするようになった時、この経験は少なからず予に職工気風を覚悟する資格を与えた。

 活版工の経験は、片山潜のその後の活動に確かな影響を与えたのでした。 

(福島 清・つづく)

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<追記> 前回の「⑤太平洋戦争と活版工」で、「マニラ新聞」に触れたところ、里見和男さんが『マニラ新聞、私の始末記』故・青山広志(編集・発行人 吉田勉)を送ってくださいました。

 「毎日新聞百年史」には「マニラ新聞では出向社員のうち54人が殉職したほどである」(393P)としかありませんが、本書の「比島関係殉職社員霊名表」には、55人の氏名、殉職月日、享年、殉職地域が記されています。その中に、大阪活版の8人、西部活版1人の氏名があります。セレベスに派遣された東京活版の方々の消息は不明です。