2022年10月17日
鳥栖工場の思い出を計画当時の西部本社代表室長、吉原勇さんが振り返る
社報2022年秋号(第 1191号)に「九州センターで聖教、公明新聞の印刷始まる」の記事があった。
《毎日新聞九州センター北九州工場(北九州市)で8月31日、聖教新聞と公明新聞の印刷が始まった。印刷を受託したのは北九州地区に輸送される両紙。安定的な部数維持が期待できるため、九州センターの収益アップにとどまらず、毎日新聞グループホールディングス全体の経営安定につながる》
記事には、「西部印刷100年、北九州工場20年」とあった。毎日新聞九州センターは1989年11月創立、鳥栖工場は2019年に創業30周年を迎えている。
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昭和天皇が崩御され、平成元年となった1989年の6月下旬、経営企画室委員だった私は秋山哲室長から「西部本社に代表室を新設する。鳥栖工場建設のためであり、君に代表室長として行ってもらいたい」と命じられた。その前年の夏ごろから、九州にも分散工場が必要だという認識が強くなり、経営企画室委員として候補地をいくつか視察、西部本社の人達とも協議して鉄道輸送にも高速道路輸送にも便利な鳥栖に建設すると決まったばかりだった。読売新聞も同じ鳥栖に、朝日新聞は大宰府にそれぞれ工場を建てるという発表があり、大手新聞3社の建設競争が始まろうとしていた。
7月1日付で北九州市小倉の西部本社に着任した。私は大阪本社管内の京都支局を振り出しに中部本社報道部、経済部、東京本社経済部、大阪本社経済部、東京の経営企画室と三本社を体験しており、毎日社員としては空前絶後の四本社を渡り歩いた男になったのだった。西部本社に行って驚いたのは、社員が裕福な暮らしを楽しんでいることだった。ヨットや釣り船を所有している社員が複数いたのである。物価の安い九州では、給料が安い毎日新聞社員でもそれなりの暮らしが出来るのだった。
工場建設についての最初の会議を開いたところ、驚いたことに完成した設計図を示された。西部本社は土地取得の前から大林組の協力を得て設計を進めていのだという。見ると輪転機三セットを備え、最上階には広いホールを作る計画になっていた。
私は、既存の小倉工場を出来るだけ活用し、新工場は必要最小限の設備にしたいと思っていたので示された設計図では過剰投資になるように思えた。「二セットにできないですか」という私に、「販売局は大拡張すると言っているから三セットでなくてはいけない」という返事。「ホールは何に使うのですか」と問うと「地元の人にコミュニティセンターのように利用してもらい地域密着型工場にします」という答えだった。そして「これから設計を変更すると三か月かかります。そうすると朝日、読売に先をこされてしまいます」と口々に主張するのだった。突然舞い降りてきた男の言うことなど聞くものか、という空気が流れていた。それが西部本社の総意だと感じた私は「追加工事は認めない」という条件で設計を了承、7月末の取締役会で決定するよう稟議書を書いた。
取得した用地を整地したあと9月には着工した。工事現場にはよく視察に出かけたが、本社での仕事を終え迫田太代表の自家用車をお借りして現場に行くと工事責任者が終業時間を延長して作業してくれるのに気付いた。その日は午後9時ごろまで作業が続いた。
そこで週一回の割合で午後6時に社を出発、高速を使って現地に午後6時40分ごろ着くという視察を繰り返した。その効果もあって作業ははかどり、建屋の建設は予定より1か月以上早く出来上がった。
三菱重工業三原工場に輪転機を受け取りに行ったのは翌年の2月だったと思う。受け取り式を行ってラッシュアワーが終わった午後8時すぎ、大型トラックを連ねて国道2号線を西に向かった。私は列の最後尾を迫田代表の車で従った。広島県内は何事もなく通過したが山口県に入って暫くすると、前を走るトラックが左側に傾くのが分かった。列をストップさせて点検すると道路左側の路肩が壊れ車輪が沈み込むためと分かった。なにしろ輪転機は一基30トンの重さがある。三セット分12基が同時に通行するから道路がその重みに耐えられないのだった。
しかしそこで立ち往生する訳にはいかないのでソロリソロリと動かしてみると、道路の中央部分をゆっくり走らせると無事に通行できるとわかった。その徐行に付き合うわけにはいかないので、私は後を印刷部長に任せて小倉に帰った。
翌朝出勤してみると午前7時頃無事に鳥栖工場に運び入れたという報告だった。しかし国道2号線を10数キロにわたって損傷させたので、三菱重工業が陸運局に始末書を提出することになった。毎日より後に輪転機を輸送した読売、朝日は国道2号線の利用を認められず、中国縦貫道を使用した。そのため中国縦貫道に深い轍の跡が数か所にわたって残り、通行するのに苦労したことを覚えている。
鳥栖工場は当初の予定より2か月早く完成、「毎日九州印刷センター」として1990年5月2日稼働を開始した。他社に先駆けて完成したため、部数の伸びは大きかった。北九州市や下関市などでは朝日新聞の部数を上回るほどになった。しかし2か月後に読売新聞の工場が、半年後に朝日新聞の工場が完成すると部数の伸びは止まった。
それとほぼ同時に巨額の赤字問題が浮上することになった。一セットの輪転機を何人で操作するかという機付人数を削減したり、カラー広告の受注、小倉と鳥栖を掛け持ちする制度をつくったりした。しかしなかなか効果はあがらなかった。私は1991年4月1日付で不動産企画室長として東京に帰り、あとは西部本社のひとたちに委ねることになった。
(64年入社・吉原 勇 84歳)