2022年11月16日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その22 本郷菊坂の樋口一葉と宮沢賢治(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 奇数月の14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html
以下に引用するのは連載19でも取りあげた永井荷風の『日和下駄』(「第六 水 附渡船」)からの文章である。
本郷の本妙寺坂の溝川の如き、団子坂下から根津に通ずる藍染川の如き、かかる溝川流るる裏町は大雨の降る折といえば必ず雨潦の氾濫に災害を被る処であった。
「藍染川」はこれまで書いてきたように、埋め立てられて現存しない。「本妙寺坂の溝川」も、暗渠化した年代ははっきしないが、やはり近代になって消失した川である。しかし、『日和下駄』の書かれた1914(大正3)年のころは、まだ開渠の状態で流れていて、大雨がふるとたちまちに氾濫して、川沿いの住宅地を水浸しにしたものとみられる。後述するように、この溝川は江戸時代には「大下水」と呼ばれた。
本妙寺は、明暦の大火(1657・明暦3年)の出火元である。そのすぐ傍にあったのが本妙寺坂だが、寺は1911(明治44)年に本郷から巣鴨へ移転した。幕府を震え上がらせたこの未曽有の大火は、本郷丸山の振袖火事と称された。
本郷丸山とは現在の菊坂通りとその周辺を含めた地域の俗称で、江戸時代には菊坂通りの本妙寺坂から胸突き坂までは丸山通りと呼ばれたという。菊坂通りは、本郷通りの本郷4丁目から北西方向に緩やかに下る坂道で、約600m先で西片1丁目にいたる。
本郷3丁目の角に、「本郷もかねやすまでは江戸の内」の川柳で知られるかねやすビルがある。菊坂通りの入口は、そこから目と鼻の先になる。かねやすは、近年まで営業していた洋品店だが、もともとは兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出して評判をとったのが始まりだといわれる。
1730(享保15)年に大火があり、湯島から本郷の一帯が焼失した。そのころ町奉行を務めていた大岡越前守忠相は、町を復興するさいの耐火対策として、本郷三丁目から南側は土蔵造りや塗屋にすることを命じた。それにたいして、本郷四丁目より北側はおかまいなしで、相変わらず板葺きや茅葺きの町屋が並んでいた、というのである。
この川柳について、たしか木村荘八だったと思うが、こんなことを書いていた。本郷のかねやすから日本橋までは3km弱、徒歩で1時間足らずの所要時間である。生活感覚からすると、本郷のあたりまでが通勤に無理のない範囲と考えられた。近代になると、交通手段がさまざま発達する。それにともない、住まいも職場から次第に遠ざかるようになった。しかし、通勤時間の目安をおよそ1時間とする生活感覚には、あまり大きな変化は見られないというのである。
私自身をふりかえれば、勤務先の毎日新聞社は千代田区の一ツ橋で、住まいは習志野市にあった。最寄り駅の津田沼駅までバスで6、7分、それより東西線の直通なら竹橋駅まで40分。歩きと待ち合わせを含め、通勤時間は1時間15分前後。報道カメラマンだから、勤務は不規則になる。交通の便を考えると、それ以上遠くには住みたくなかった。
『江戸切絵図』「小石川谷中本郷絵図」をみると、中山道の本郷3丁目あたりまでは、街道の両側を町屋が占めているが、その外側を見ると、下級武士の屋敷や大縄地(組屋敷)が所狭しとひしめいている。
彼らの職場はおそらく江戸城とその周辺だったはずである。下級武士は、幕府の扶持だけでは暮らせなかった。そのため、屋敷や拝領地に借家をつくって、町人を住まわせる例も少なくなかったらしい。武家地の住人は武士ばかりとは限らなかったわけである。町人たちもまた仕事の関係で日本橋や神田などに出かけたものと思われる。
菊坂通りの南側は崖地になっていて、その下の低地には住宅が立ち並ぶ。さらにその奥には上りの傾斜地が連なっている。規模は小さいが典型的な谷戸(谷津)の地形である。その谷底を流れていたのが、荷風のいう大雨が降ると氾濫する溝川だったとみられる。菊坂通りから南側の低地へ降りる階段が何カ所かある。低地に下りたところに菊坂通りと併行する形で狭い道がある。周りとの標高差から、これが溝川の流路跡ではないかと推測される。
その1ヶ所に大正末か昭和初期の築と思しき木造建築がある。菊坂通りからはふつうの二階建てだが、階段の脇の脇に立つと紛れもなく三階建てである。菊坂通りとその下の道との間は急峻な崖地になっていて、その崖地に住居や商店などが、肩を寄せ合うように軒を連ねているのである。
本郷の観光名所になっている樋口一葉の旧居跡は、この階段からほど遠くない住宅地の一画にある。路地の一つを入っていくと、奥まったところに手押しポンプの井戸が残っている。共同井戸と思われるが、これに洗い場がついている。周りを石畳で舗装していることもあるが、周りの住居の狭苦しさと比べ、なんとなくゆったりした雰囲気がある。耳をすませば、女たちの井戸端会議が聞こえてくるような気もする。
井戸の奥に石段の坂道がある。そこも急峻な崖地である。石段の両側に木造三階建ての古びた住宅が建っている。左の住宅はICHIYO HOUSEの名で、Google地図にも載る。インターネットで検索すると、入居者募集の不動産広告があり、「築年数は約90年」、「大正時代に建築されたとか」を売り文句にしている。
石段を上ると、建物の裏側には植木鉢が並び、すぐ横には人の背丈の倍ほどもある石垣が聳え立つ(ph3)。石垣の上にも住宅が建っているのである。石垣の下には路地があり、20mほど先で鐙坂に通じている。その出口に金田一京助・春彦父子の旧居跡がある。鐙坂の名前は坂の形が鐙に似ているからとも、かつてこの付近に鐙を作る職人が住んでいたからともいわれる。
樋口一葉がこの菊坂通りと鐙坂に挟まれた谷間に借家住まいをしたのは、1890(明治23)年9月から1893年7月までの3年弱であるという。一家の暮らしは、父親の事業の失敗、さらに父親と長兄の死が重なり、それまでと一転して、困窮を極めることになった。母親と妹の三人暮らしのなか、一葉は一家の大黒柱となり、針仕事や洗張りなどで生計を立てようと労苦をいとわず働いた。その傍ら、中島歌子の「萩の舎」で歌を学んだり、上野の東京図書館で古今の名作を手当たり次第に読んだりしていたともいう。文学の師と仰いだ半井桃水と知り合ったのもそのころで、代表作の一つ『にごりえ』の結城朝之助は桃水をイメージしたものだといわれる。(以下略)