随筆集

2022年11月17日

『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝①酒井慎一

 毎日新聞創刊150周年記念出版と銘打った写真部史『目撃者たちの記憶 1964~2021』(大空出版@2420円・税込み)が好評だ。

 この写真部史は、写真部OB会が1989年に平河出版から発行した『【激写】昭和』の続編という位置づけで、掲載は、前回の64東京五輪以降としたので、使えない原稿がいっぱい出た。その救済策で、写真記者列伝を展開したい。

 第1回は、61入社の私(中尾豊)が師と仰いだ酒井慎一さん(1974年在職中に没50歳)。

 まずこの写真から。

画像

 佐藤栄作首相の手である。写真説明は【政権担当2530日目 古希70歳の誕生日を迎えた佐藤首相の手相】。

 私の原稿から。《昭和46年2月、東京写真部のレジェンド・酒井慎一さんが9年ぶりに大阪本社から古巣に戻ってきた。師匠には大きな仕事が待ち構えていた。社会部から写真部に転属してきた二宮徳一デスク(88年没57歳)とタッグを組んで夕刊三面の企画写真を担うことになっていたのである。「一枚写真」である》

 《酒井さんからいきなり声がかかった。「君は国会取材の経験があると聞いている。ちょっと手伝って欲しい」。参議院大蔵委員会で佐藤栄作首相を撮るのが、その取材目的だった。

 3月26日、二宮デスクともども3人で委員会に臨んだ。酒井さんは400㍉の望遠レンズをケースに収め、私が三脚を持ち運んだ。委員会での撮影場所は2階の最前列で、各社ともそれぞれ場所は決まっている。目の前には各社自前の金属製の雲台が、がっしり固定されている。三脚は使えないのである。そのことを酒井さんに言うと、ニタニタしながら「三脚は俺が使う」と》

 《酒井さんは傍聴席から撮ることを考えていたのだ。傍聴席はまだがら空き。三脚を立てても報道用の傍聴章を見せると警備員も文句は言わない。

 大蔵委員会の審議は、古希の首相に敬意を表して形式的に終わった。佐藤首相はニコニコしながら与野党の委員(議員)に笑顔であいさつ。酒井さんは首相の満面の笑みでも撮ったのだと私は思っていた。議長の散会の言葉で、首相は与党の委員に囲まれるように出口に向かった。その時である、出口で首相は両腕を後ろ手に組んだ。一瞬の間だった。傍聴席からシャッター音が2~3度聞こえた。酒井さんの満面の含み笑いが見えた》

画像

 酒井さんは、1942(昭和42)年2月活版部から写真部員となった。サン写真部出向が10年近く。ここでストレートのニュース写真でなく、フューチャーものを会得した。

 【荻外荘(てきがいそう)を散歩する吉田茂首相】

 満面の笑みを浮かべている吉田茂首相。撮影は1948(昭和23)年10月。スピグラで撮っているので、艶やかな吉田の表情、着物のディテール、背景の木立なども細やかに表現されている。「あの頑固一徹な吉田茂」が無警戒に心を許してしまう何かが、撮影者の酒井さんにあった。この撮影テクニックこそが酒井流だった。

画像
画像
画像

 【料亭での隠し撮り。右端の笑顔の人は1960年代に総理になった池田勇人】

 《1955(昭和30)年8月、料亭での吉田と自民党首脳との会合写真である。カメラは身軽に撮れるニコンSでの隠し撮り。彼は料理長の白衣を借り、接待する女性に寄り添うように近づいて撮ったと、6年後に私はご本人から聞いている。

 自由民主党が政権を維持する55年体制が確立。この写真の右の方にいる岸信介が後継となった。この写真こそ、55年体制の象徴となる隠れた特ダネ写真だと言えよう》

 取材中の酒井さんのスナップ写真が残っている。皇太子殿下(現上皇陛下)の真後ろ、右端が酒井さんである。

 在職中に逝去され、自宅には31冊のスクラップ帳が残された。

 『酒井慎一写真遺稿集 心』(1976年刊)をインターネットで購入したら1万円だった。

(元出版写真部長・中尾 豊)