随筆集

2022年11月28日

『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝② 依田孝喜と木村勝久―日本人初登頂のマナスルとエベレストへ同行

 依田孝喜は、映画「マナスルに立つ」で第5回菊池寛賞を受賞した。1956(昭和31)年5月9日、毎日新聞社が後援した日本山岳会によるヒマラヤの未踏峰マナスル(8163メートル)初登頂を記録した映画で、同行した東京本社写真部の依田隊員が撮影した。新聞報道のスチール写真を撮影するのと同時に、ムービーもカラーで撮った。

画像
依田孝喜さん

 日本の登山隊が8000㍍を超す高峰を征服するのは初めてで、映画の公開初日は観客が長蛇の列を作った。登山ブームが起き、記念切手も発行された。

 依田は、「趣味は登山と写真」「大学に通うかたわら(編集局)事務員として毎日新聞で働いていた」と書き残している。入社は1937(昭和12)年、写真部は45(昭和20)年からだ。53(昭和28)年の第一次マナスル登山隊に選ばれた時、36歳だった。第一次隊は標高7,750㍍に達したが、登頂はできず、翌53年の第二次隊は、地元住民の反対で登山することもできなかった。

 そして第三次(槇有恒隊長)で今西寿雄(当時41歳、のち日本山岳会会長)とシェルパのギャルツェン・ノルブ(同38歳)が初登頂に成功。2日後の5月11日加藤喜一郎(当時35歳、慶大ダウラギリ第2峰偵察隊長)と最年少隊員・毎日新聞運動部の日下田実(同25歳)が頂上に立った。

画像
マナスル登頂記念切手

 登頂成功の第1報は、5月18日付毎日新聞朝刊1面。第1次・2次隊員だった運動部長・竹節作太が署名入りで原稿を書いた。依田は、標高7300㍍のC5(第5キャンプ)まで登った。そこで映画の撮影をしたが、大変だったのは、毎日新聞への紙面用の写真原稿送り。C4(標高6650㍍)までに撮影したフィルムをBC(ベースキャンプ、標高3850㍍)まで下って現像、写真説明をつけてシェルパに託してカトマンズへ。そして再びBCからC2→C3→C4→C5と登るのである。

 「ただでさえ息の切れる7000㍍の高所」での撮影が大変だったか、「マナスル登頂を終わって」の連載最終回で依田が書いている(6月5日付毎日新聞朝刊)。

 依田は52年の事前踏査隊にも加わっており、マナスルには5年関わった。『マナスル写真集1952-56』(毎日新聞社1956年刊)を出版している。59年には雪男学術探検隊員としてネパールへ特派された。その後「カメラ毎日」編集長。1998年没81歳。

 毎日新聞関係者は、竹節作太88年没82歳、日下田実2020年没89歳。

 エベレストに初の「日の丸」—日本山岳会、世界6番目の快挙

 世界の最高峰8848㍍の登頂に成功が報じられたのは、1970(昭和45)年5月14日付毎日新聞夕刊だった。

 松浦輝夫(当時36歳)と植村直己(同29歳)が5月11日午前9時10分頂上に立った。この登山隊にカメラマンとして同行したのが、東京本社写真部の木村勝久だった。

画像
木村勝久さん

 木村は日大芸術学部写真科を卒業して55年入社。毎日新聞社が後援した慶大未踏峰ヒマルチュリ登山隊(1960年5月24日7893㍍に初登頂成功)とエベレスト登山隊(1969・1970年)に特派された。

 『日本山岳学会エベレスト初登頂を撮った男—報道カメラマン木村勝久』展が2018年に郷里の茨城県坂東市立資料館・坂東郷土館ミューズで開かれた。同展では、植村直己から贈られたエベレスト頂上の石も飾られた。

 円満な人柄で、誰かも愛された。独身時代の植村直己がよく木村家を訪れ、「2人で酒を酌み交わしていたようです」と公子夫人が語っている。

 1972(昭和47)年家業の貴金属店を継ぐため退社した。

 私(堤)は、初任地長野支局で木村さんと出会った。1965年から始まった松代地震の応援出張で来られた。私が写真部長になったことを喜んでくれて、「長尾靖さんと年に数回会うんだ」と言って、ピューリッツァー賞カメラマン(浅沼稲次郎日本社会党委員長刺殺の瞬間を撮影)を紹介してくれた。池袋でカメラの展示会が開かれている時で、そのあと近くのホテルのラウンジで、3人で1パイやった。2人とも物静かな紳士だった。

 木村さんは、2005年没74歳。長尾さんは、2009年没78歳。

(堤  哲)