2022年12月5日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝③ 金澤喜雄(秀憲)——ロバート・キャパにアテンドしたカメラマン
この写真は、写真家ロバート・キャパが羽田空港からSAS機で仏印へ出発するところである。1954(昭和29)年5月1日午後9時30分発ストクホルム行き。キャパは、ライフ誌の依頼でインドシナへ向かい、5月25日インドシナ戦線で地雷を踏み、死亡した。40歳だった。
何故、この写真を毎日新聞が撮ったのか。キャパは、「カメラ毎日」創刊に合わせて4月13日に初来日した。毎日新聞社が招待したのである。
日本滞在は20日ほどだったが、精力的に「日本」を撮った。その撮影ぶり——。
*桜は散っていたが「桜の花よりその下で働く人の方が魅力的だ」。
*浅草で。「ここはピクトリアル・パラダイス」(写真の天国)だ。
*京都桂離宮では3枚撮っただけ。法隆寺では一家でお弁当を撮影。まず5~6㍍先から、次第に近づき、カメラに気づかれたら撮影を止め、カメラを意識しなくなるのを待った。
*帝国ホテルのバーで英字新聞を読んでいたら、第5福竜丸の記事。翌日焼津へ。東京駅で、汽車の出る10分ほどにホームで52枚。若い男女の写真。
*天皇誕生日の皇居前広場。
*5月1日メーデー取材。毎日新聞夕刊に1面5段で掲載された。
「風船と旗と人波」。本社の招待で日本に来日中のマグナム・フォト会長ロバート・キャパ氏写す(神宮外苑メーデー中央会場)
キャパにアテンドしたのが、英語を話すことのできる金澤喜雄(秀憲)だった。
月刊「文藝春秋」2000年1月号の特集「私たちが出会った20世紀の巨人」でキャパの思い出を書いた。
見出しになった「こぼれたウィスキーを耳につけると幸福になる」は、キャパが女性にもてるエピソードのひとつだ。
《一緒に飲みに行ってハイボールをつくってもらったら、女の子がうっかりこぼしてしまった。すると「あ、いいよ、いいよ」と言って、「こぼれたウィスキーは耳につけると幸福になれるんだよ。だから皆さんも一緒につけましょう」と自ら率先して一生懸命、耳につけるんだ》
《写真は自分の感情を高くもっていって、そこにピントの山を重ねてシャッターチャンスを狙うものです。写真は技術でなくて心》《キャパのようにピュアな思いやりの心をもった人の写真はやはり人の心をうつんですね》
その後も日本国内撮影旅行のスケジュールが入っていた。九州、名古屋、東北、北海道。
《そこに突然ライフ誌から依頼がきた。激化するインドシナ戦線に従軍する企画だった。キャパはまた日本へ戻ってくるからと言い、荷物を残して羽田から飛び立って行った》
◇
金澤は、東京府立八中(現都立小山台高校)から東京写真専門学校(現東京工芸大学)を1933(昭和8)年に卒業して時事新報に入社、2年後の35(昭和10)年9月に「安保さん(久武、元東京本社写真部長)と一緒に東日へ入社した」。
上海支局、マニラ新聞出向など戦前は海外勤務がほとんどで、東京本社写真部デスクから「カメラ毎日」創刊に合わせ出版局に異動、活躍の場を得た感じだ。
「カメラ毎日」編集長は、初代井上繰次郎(三浦寅吉のあと戦後2代目の東京本社写真部長)、2代目岸哲男。金澤は3代目編集長として1963(昭和38)年8月から66(昭和41)年まで丸3年間務めた。その間、立木義浩、篠山紀信、森山大道、高梨豊、大倉俊二、沢渡朔ら若手写真家を大胆に特集・発掘した。
金澤は「編集長時代、写真は山岸章二、メカは佐伯恪五郎に全部任せた」といっている。
山岸と佐伯は1949(昭和24)年の同期入社。ともに「カメラ毎日」編集長を務めた。
「カメラ毎日」の最後の編集長・西井一夫は、『写真編集者 山岸章二へのオマージュ』(窓社・2002 年)を出版している。
金澤の著書に『報道写真の研究』(1951年刊)がある。理論家だった。
金澤は2006年没94歳。安保2005年没93歳、山岸1979年没49歳、佐伯2004年没76歳、西井2001年没55歳=文中敬称略
(堤 哲)