随筆集

2022年12月6日

福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ⑦レッド・パージと活版工

 日本がまだ米軍(連合国軍)占領下だった1949年から1950年にかけて、「レッド・パージ」が吹き荒れました。1949年は国鉄・通信はじめ官公庁の「行政整理」、民間の「企業整備」を理由とする労働組合活動家の狙い打ちでした。1950年は、GHQ強権により新聞・放送を皮切りに電力、教員、鉄鋼、造船などの労働者たちが問答無用で職場から追放されました。レッド・パージは、推定4万人の労働者たちが職場から追放された戦後最大の人権侵害事件で、現在もなお被害者救済の運動が継続されています。

 新聞・放送では、1950年7月28日から49社で710人が追放されました。毎日新聞では、東京31人、大阪19人の49人が追放され、東京では6人、大阪では1人の活版工が含まれていました。

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 2020年12月、「北大生・宮澤弘幸『スパイ冤罪事件』の真相と広める会」が『検証 良心の自由 レッド・パージ70年 新聞の罪と居直り―毎日新聞を手始めに』と題した本を発行しました。執筆は大住広人さんです。この「あとがき」に私は次のように書きました。

 高卒で国電・有楽町駅前の毎日新聞東京本社に印刷局養成員として入社した1957年はレッド・パージの7年後だった。配属された活版部には、私の出生(1938年)前に入社した人、徴兵で中国戦線に動員されて復員した人などがいた。午前0時を過ぎて、最終版降版の頃になると雑談に花が咲く。

 そんな時、活版でパージされた6人を知る先輩は、小声で「あの時は酷かった。玄関から追い出したんだから」と言っていた。その後、1961年から毎日労組青年部委員になった。当時の新聞産業は東京五輪を前にして過当競争が激化していた。「増㌻の印刷、増版の活版」で、版数が増えると活版の仕事は多忙を極めた。

 だがそんな時、労協に基づく組合活動招請状を持っていくと露骨に嫌な顔をする職制がいる一方、「すぐに行け」と仕事をはずしてくれる職制がいた。今になって思うと、その先輩はレッド・パージ時に問答無用で職場を追い出された仲間を見ていたのに、何もできなかった悔しい思いがあったのではないかと想像した。

 新聞・通信・放送と、全産業の数万人に上るレッド・パージ被害者たちの無念と困難を極めたその後を思う時、「国家権力犯罪に〝時効〟はない」ことを心に刻みたい。

 「レッド・パージ70年」発行にあたって、新聞OBたちに「意見・感想・問題提起」をお願いしました。その中で、朝日新聞OBの藤森研さんは「レッド・パージ70年に考える」と題して次のように書いています。

 レッド・パージと聞くと、私は、それを生きた人たちの生き方に思いが行く。

 私が勤務していた朝日新聞東京本社の8階に社員食堂がある。その入口脇の狭いスペースで、いつも衣料品を商っている年配の女性がいた。普通の出入り業者と思っていたが、ある日、その女性がレッド・パージで1950年に朝日の業務局を追われた人だと知った。本書にも出て来る北野照日さんである。

 7月28日に解雇を言い渡された時、北野さんは「私に何か落度があったのですか」と聞いた。局長は「それはない」と言った。思想の弾圧を端的に物語る話だ。幼子を抱えて職場を追われ、路上で端切れを売って生活した。窮状を知ったかつての同僚が「布地を持って来なさい」と言う。社内に入れずに入口に置くと、同僚が取りに来て社内で売ってくれた。食堂の脇での商いはその延長上の今の姿だった。北野さんは、つましく生きて、思想を貫いた。(略)

 坂田茂さんは、元日本鋼管川崎製鉄所の労働者で、砂川事件の元被告だ。(略)1950年当時、21歳の坂田さんは教会に通っていた。仕事で尊敬する先輩がレッド・パージを受けたが、「キリストはこんなことを認めない」と、職場討議で一人だけパージ「反対」に手を挙げた。翌日、労務担当者から「君は母子家庭を支えているね。反対を撤回すれば、第二のパージから外すようにはからう」と言われ、「撤回します」と言ってしまった。

 帰宅して母に話すと「家は何とかする。自分の考えで生きなさい」と言われた。心を決め、共産党に入り、労働運動に携わり、砂川に行った、と書いている。そういう関わり方をした人もいたのだと知る。(略)

 さまざまな人間の生き方。今に引きつけ、自分はどうするだろう、と考える。

 毎日新聞東京6人、大阪1人の活版工たちのその後の人生は苦難の連続だったろうと想像します。「良心の自由」を守ることは、実に重い課題であることをかみしめています。

(福島 清・つづく)