随筆集

2022年12月12日

『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝④ 訃報が載った硫黄島の生き残り石井周治・摺鉢山の日の丸を撮った関根武

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1945(昭和20)年11月8日付毎日新聞

 日本軍が全滅した硫黄島の戦い。写真的には、摺鉢山の頂上に星条旗を掲揚する米写真家ジョー・ローゼンタール(1911~2006)の写真がピューリッツァー賞を受賞したことで知られる。

 《昭和19年7月、一つ星を肩に、一衛生兵として硫黄島に上陸、それから悪夢のような十ヵ月。…玉砕し、すでに「故陸軍衛生上等兵 石井周治の霊」という白木の位牌になり、戸籍面からも抹殺されたとも知らず、戦い終わってP・W(捕虜)の生活が十ヵ月》

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石井周治さん

 石井周治著『硫黄島に生きる』(国書刊行会1982年刊)にこうある。

 1946(昭和21)年1月7日、浦賀に帰って来た。復員の手続きのあと9日、満員すし詰めの電車に乗って有楽町の毎日新聞東京本社へ。戦死したはずの復員兵が現れたのである。編集局中が驚きに沸き、生還を喜んだ。しかし、石井は捕虜になってアメリカ本土の収容所から帰国したと告白できなかった。

 「硫黄島でなく父島にいたので助かったのだ」とウソの説明をした。「生きて虜囚の辱を受けず」を叩き込まれていたからだ。

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1952(昭和27)年1月31日毎日新聞朝刊1面

 硫黄島で戦死した総指揮官・栗林忠道中将(陸士26期)を書いた梯久美子著『散るぞ悲しき』(新潮社2005年刊)に「召集されて第百九師団混成第二旅団野戦病院の衛生兵となった毎日新聞写真部員・石井周治」、「生還して新聞社に復帰した石井は、戦後7年たって再び硫黄島の土を踏んだ」などと紹介されている。

 石井は、栗林中将が近衛第二師団長時代(1943(昭和18)年6月10日~翌44(昭和19)年4月5日)に取材で面識があり、硫黄島で初めて会った時、「石井君か、暇なときは遊びに来給え」といわれた(『硫黄島に生きる』)。

 石井が毎日新聞の取材団の一員として硫黄島を再訪したのは、1952(昭和27)年1月だった。毎日新聞1面に無名戦士の墓に東京から持参した水をかける石井の写真が掲載された。同僚の二村次郎カメラマンが撮影した。

 硫黄島では水の確保に苦労した。「ぼくはねえ機会があったら必ずこの島を訪れて内地の水をたむけることを亡き戦友たちに誓っていた。いまやっとその約束を果たすことが出来てこんなうれしいことはない」という石井の談話が載っている。

 社会部からは書き手の福湯豊と増田滋が派遣された。増田は1973(昭和48)年2月から1年7か月、東京本社写真部長を務めている。1989年没66歳。

 石井は1997年没82歳。

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関根武さん

 その硫黄島の摺鉢山に23年間翻っていた星条旗が米兵の手で降ろされ、自衛隊員によって「日の丸」が翻った。1968(昭和43)年6月26日小笠原諸島が返還され、その歴史的瞬間を関根武がポラロイドカメラで撮影した。紙面の写真左は米軍の戦勝記念碑である。

 このポラ写真は、飛行場で待機していた毎日新聞社機「金星号」、さらに上空で待機していた本社機「新ニッポン号」、八丈島に特設した中継所を経由して1200㌔余の機上中継無線電送により竹橋の本社でキャッチ。その日の夕刊1面、横位置6段で「関根特派員撮影」と名前を入れて掲載された。

 写真部OB会で、関根はいつも眼を輝かせて当時のことを回想していた。2018年没88歳。=文中敬称略

(堤 哲)

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