随筆集

2022年12月19日

『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑤ 三浦寅吉——「新聞写真でこの人の右に出る人はいない」

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三浦寅吉さん

 時事新報時代から特ダネカメラマンだった三浦寅吉の毎日新聞入社は、1925(大正14)年4月。26歳の働き盛りだった。

 皇室にも、軍部にも、政界にも顔がきいた。菊池寛ら文士とも交流のある名物カメラマン。ラジオにもよく出演し「今の新聞に写真がなくて、活字のみで綴られた文章だけの新聞だったら、どんなに薄暗い感じでせう。そこで新聞写真は、新聞の燈火だと思ってをります」(朝日新聞1933(昭和8)年6月27日)などとPRしている。

 月刊「文藝春秋」1934(昭和9)年10月号に「一新聞写真師の告白」を12㌻にわたって綴り、さらに53(昭和28)年2月号には「天皇と暗箱カメラマン—写真部生活30年—」で写真記者の総括をしている。

 特ダネ写真をどうものにしたか自慢話の数々だが、昭和天皇・皇后両陛下がご臨席の東京奠都50年祭式典(1917(大正6)年11月4日)のときの自身の格好をこう記している。

 「シルクハット、燕尾服、赤い大きなバラを胸に、旧型の写真機を持った紅顔?のデブ」

 別のエッセーでは「22貫もある肥え過ぎた」と。22貫は82・5㌔である。

 大食漢だった。銀座煉瓦亭のトンカツ10枚を食べる賭けをして、25円をせしめたというエピソードもある。けしかけたのは学芸部長・阿部眞之助と、初代写真部長となる弓館芳夫(小鰐)だった。弓館は、1903(明治36)年に早慶戦が始まったときの早大野球部の初代マネジャー。「早慶戦はすべて見ている」が自慢だった。萬朝報から入社、運動部長も務めた。東日紙上で「西遊記」を連載した。猪八戒を「ブタ」と書いた最初で、作家の筒井康隆が「自由自在のくだけた文章にすっかり魅了された」と感嘆した。1958年没75歳。

 三浦は32年ロス五輪に派遣され、写真部デスクからカメラマンで初の写真部長に就任するのが1941(昭和16)年9月。太平洋戦争の直前だ。

 デスク時代に、「腕が撮った時代はすでに去った。これからの写真班は頭で写真を写さねばならない」「写真が写せぬ記者がないと同様、記事の書けぬ写真班が1人もおらぬ時代の到来を私共は切望している」とカメラマンの心得を書き残している。

 戦時下は「勝つためには、新聞は一億国民の眼となり、耳となって戦い抜かねばならない」と。敗戦後まで部長を務めたが、元早大教授の歌人・会津八一が1945(昭和20)年4月13日の空襲で自宅が消失、新潟に帰郷する際、毎日新聞の社機を用立てた。

 その際、八一が詠んだ歌が2首残っている。

   大空を渡れば寒き衣手に迫りて白き天の棚雲
   うらぶれて空の雲間を渡り来と故郷人のあに知らめやも

 「4月30日三浦寅吉に扶けられて羽田より飛行機に乗りてわづかに東京を立ち出づ。三浦寅吉、毎日新聞写真部長。侠骨あり、予を遇する最も篤し」

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1935(昭和10)年2月13日付「東日」朝刊

 三浦は、1945(昭和20)年11月1日付で「サン・ニュース・フォト社」へ出向、さらに翌46(昭和21)年創刊の「サン写真新聞」取締役となっている。

 「新聞写真でこの人の右に出る人はいない」は、後輩・白井鑑三の言葉だが、三浦の作品を紹介したい。東京駅のホームでロンドン軍縮会議から帰国した山本五十六が広田弘毅外相と握手、その左に大角岑生海相。「ライカで撮った。薄暗ったが、ノーフラッシュだ」。

 1965年没66歳。=文中敬称略

(堤  哲)