随筆集

2022年12月26日

『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑥ 日沢四郎——地獄坂を2年余、「東京裁判」を担当

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日沢四郎さん

 日沢四郎は、東京裁判の写真取材を1人で担当した。1946(昭和21)年5月3日の初公判から、東条英機ら7人のA級戦犯に死刑が執行された48(昭和23)年12月23日まで。

 法廷となった元陸軍省(現防衛省)はかつて陸軍士官学校だった。その正門の坂は地獄坂と呼ばれた。日沢は「私にとってもここは地獄坂であった。遅くも9時までにはこの坂を登って法廷に入らなければならなかった」と、自著『戦犯を追って三ヵ年』で述べている。

 記者は7人登録できたが、カメラ枠は1。三脚にカメラを3台取り付け、3方向の写真が撮れるように工夫した。

 ちなみにペンは、NY特派員をするなど英語が堪能な高松棟一郎をはじめ福湯豊、川野啓介、鈴木二郎、新名丈夫、杉浦克己。「多士済々、当時の新聞のベストメンバー」と、取材班のキャップ狩野近雄(のち編集局長、スポニチ社長)。自ら選んだ取材班である。

 「極東国際軍事裁判」を「東京裁判」と名付けたのは、狩野である。自著『記者とその世界』に詳しいが、「東京裁判」で真っ先に取り上げたのは「ヒイさん」である。

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東条英機の頭をピシャリと叩いた直後に合掌する大川周明

 大川周明が東条英機の頭をピシャッと叩いた場面が二度あったが、各社とも撮影できなかった。しかし、「ヒイさんはそのあと合掌する大川を撮るなど、数多くの特ダネ写真をものにした」。

 ——昭和21年5月3日のことである。(社会部の)福湯(豊)や高松(棟一郎)が休廷時間に、ゲラゲラ笑いながらクラブに戻って来た。ずっとクラブにいた私(狩野近雄)を見るなり、「大川周明が東条の禿頭を叩きやがった」という。

 私は、開廷のベルがなると記者席に入ってみた。審理を再開するとすぐ、大川はまた東条の頭をたたいた。被告席は二段になっていて、東条は前列、そのすぐうしろの後列に大川はすわっているのである。手をちょっと上げて、ペタンと平手で、東条のハゲをたたいたのだ。そのときの東条が、うしろをふりむいて、そのふりむいた顔がよかった。微笑をたたえて、“なんだいこのイタズラ小僧が”といった顔なのである。人のいい東条の一面が見えた。

 シーンとした法廷のなかに、ペチャッと響く音が奇妙なおかしさだった。

 ——法廷内珍事、大川周明が東条英機の頭をペチャンとたたいたときは、二度とも各社は撮影できなかった。しかし、ヒイさん(日沢カメラマン)は、東条の頭を叩いたあと合掌する大川を撮っている。

 ——ヒイさんは数多くの特ダネ写真を撮った。法廷という限られた場所、固定した写真班の位置、そういう条件のもとで各社を出し抜くことは容易ではない。ヒイさんは三脚の上にカメラを3台とりつけてシャッターを切ると同時に3方向の写真がとれる新発明をしたりした。

 翌日の新聞各紙。「東条のハゲ頭をポカリ」という見出しが躍ったが写真はなかった。

 毎日新聞に載った大川が合掌する写真を見て、MPたちから「これは君が撮ったのか。是非一枚焼き付けてくれ」と頼まれた、と日沢は自著『戦犯を追って三ヵ年』(1949年刊)に綴っている。

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1953(昭和28)年4月2日付朝刊

 日沢は1953(昭和28)年、英エリザベス女王戴冠式に出席する皇太子さま(現上皇陛下)に同行した。「プレジデント・ウィルソン」号の甲板でくつろぐ殿下の写真を撮って、伝書バト4羽に託した。うち1羽が航行中の貨物船に保護され、写真が毎日新聞社に届いた。特ダネ紙面となった。

 日沢は旧制中学を4年で中退して写真館に4年勤務したあと、1935(昭和10)年、金沢支局嘱託から大阪写真部→マニラ支局→44(昭和19)年、東京写真部。戦後、東京裁判、エリザベス女王の戴冠式→西部本社写真課長→大阪本社写真部長→61(昭和36)年8月から5年間東京本社写真部長。1976年没65歳。

 私(堤)が入社した1964年、狩野が東京本社編集局長、日沢は写真部長。外信部長大森実。オリンピック担当の運動部長仁藤正俊、社会部長稲野治兵衛だった。

=敬称略

(堤  哲)