随筆集

2022年12月26日

山宗さんが生んだ偉大なテレビマン平本和生さん

画像
山崎宗次さん

 1か月ほど前、毎日新聞の読書面で元TBS報道局長・BS―TBS社長平本和生著『昭和人の棲家 報道局長回想録』(新潮社)が紹介された。

 「平本さんは、山崎塾の1期生。何か書いたら」と社会部の先輩で、毎友会HP協力者の天野勝文さん(88歳)から電話があった。

 ヤマソウ(山崎宗次)さんのことは宮城まり子さんが亡くなった時、このHPに書いた。以下の写真を付けて。

 カンカラコモデケア作文術は、当然この本でも紹介されている。

 ヤマソウさんの行動力は、平本さんのTBS入社試験で発揮される。

画像

 《「最終面接まで進めました」「良し、分かった。もう一押しだ。時子山総長の所に行こう」》 

 《その夜は土砂降りの雨だった。中野にあった早稲田大学総長宅にはポツンと軒先に裸電球が灯っていた。

 「大きな声で言え。『早稲田大学第一政治経済学部政治学科のヒラモトカズオです』と雨に負けないように大声で言え」》

 《「誰だ」……ガラガラとガラスの引き戸が開いた。ドテラ姿の総長が出てきたのだ。「何の用だ。夜中に」》

 翌日の早大総長室。

 《巻紙に黒々と筆で書かれた推薦文は、早稲田大学総長時子山常三郎の署名があり、総長印が押してあった。

 TBSの狭き門はこうして山崎さんの徹底した指導とアイディアでこじ開けられて行く》

 読み進めていくうちに、64年同期入社で初任地長野支局へ一緒に赴任した黒岩徹(通称黒ちゃん)が出てきた。当時ワシントン支局勤務。

 《毎日新聞の黒岩徹さんから連絡があった。「チャレンジャーの取材に行かないか」》

 当時、スペースシャトルの打ち上げは、成功するのが当たり前になっていた。

 アメリカ勤務が初めての黒ちゃんにとっては、打ち上げは初めての経験だった。

 TBSワシントン支局の平本さんは、「ほとんど物見遊山になりかねない出張でフロリダまで行くのはどうか」と思って、《黒岩さんには丁重にお断りした。この判断は大きな誤りでもあったし、結果、正解でもあった》

 「正解でもあった」というのは——。ナショナルプレスビル6階にあるTBSの支局で事故の発生を知った。《映像を送り出すケーブル回線が二本しか設備されていない。回線はワシントンからニューヨークに繋がっている。その回線を押さえなくては、テレビニュースは仕事にならない》で、10階に駆け上がって、回線の予約をしたのだ。日本の放送時間に合わせ、いわば手当たり次第に。

 《「東京はしゃべれるだけしゃべれって言っている。時間は気にしないで」…記者になって初めて“勧進帳”で喋り続けた》

 一方、ケープ・カナベラルの黒ちゃん。この日の打ち上げ現場にいた唯一日本人新聞記者。事故発生でプレスセンターの6台ある電話のひとつに飛びついて「チャレンジャーが爆発」と東京の外信部に叫んだ。

 《「電話を切るな。原稿を送れ。輪転機を止める」》

 新聞各社で結んでいる降版協定が解除され、午前2時10分まで延長された。

 翌日の朝刊は、当然のことながら各社とも1面を埋めたが、【ケネディー宇宙センター(ケープ・カナベラル)発】のクレジットは毎日新聞独自であった。

 事故の発生が、日本時間午前1時38分。その紙面が以下である。 

画像
1986年1月29日付朝刊
画像
1986年1月29日付夕刊社会面

 右は、その日の夕刊社会面だが、黒岩特派員の現場リポートがバッチリだ。社会部の夕刊当番デスクは私(堤)だった。

 山宗さんの言葉が紹介されている。

 「おいあんた。大学出て何になるんだ」
 「ジャーナリストになれ」
 「新聞じゃない、テレビの記者になれ」
 「新聞はもう先が見えている。これからはテレビだ」
 「テレビならTBSの報道局だ」

 平本さんは、警視庁クラブで三菱重工本社爆破事件(1974年)やファントム偵察機墜落事件(77年)、政治部では自民党の旧田中派を担当し、田中角栄、竹下登の両首相らと交流し、92歳で亡くなるまで「平和」を唱えた野中広務・元幹事長を師と慕う。ニュース番組のキャスターも務めた。

 引退後は東京・築地で早朝の社会人向けの勉強会を立ち上げた。コロナが広がって「築地朝塾 Plus」として発展した、と読書面の紹介にあった。

 山宗さんは、偉大なテレビマンの生みの親である。

 1987(昭和62)年7月ゴルフ場で倒れ、急逝した。享年52。

 その1年後に『追想録:山崎宗次』が発刊された。ハードカバー、480㌻もある分厚い本だ。2人の世話人のひとりが平本さんだった。

(堤  哲)