随筆集

2023年1月5日

福島清さんの「活版工時代あれこれ」 ⑧大毎と東日の活版工

明治初年頃の印刷風景(「印刷製本機械百年史」)

 東京日日新聞と大阪毎日新聞の活版工育成方針には違いがありました。その違いと活版の歴史について、調べたことがありますので、簡単に紹介します。

◇活版の歴史

 活字は、1445年ごろ、ドイツのグーテンベルクが発明したとされています。そのグーテンベルクは1455年に、42行聖書を200冊発行しました。これはゴシック書体の傑作で非の打ちどころのない活版印刷の最初の本だといわれています。


 日本に活字が現れたのはそれから415年すぎた1870 (明治3)年、オランダ通詞をしていた本木昌造=写真・右上=が、20数年にわたる努力の結果、長崎に我が国最初の活版所を設立したときです。なお、「活版」と言う言葉は、それまでの板木とちがって「文字の組替えが自在にできるところから“生きた版"という意味で、活版と名づけられた」(平凡社百科辞典)ということです。

 毎日新聞の前身、東京日日新間が創刊されたのはそれから2年後の1872(明治5)年旧2月21日のことです。その第1号は木版刷りでしたが、翌日の第2号で、日刊紙として初めて鉛活字を使いました。その後活字が揃わないところから木版に戻ったりして、約1年後の3月2日付第304号から本格的に活字を使いました。最初は勧工寮払い下げの活字でしたが、その後、本木昌造の門下生・平野富二=写真右・下=が上京してつくった平野活版製造所の活字を使ったとされています。

◇大毎・東日時代の活版工

 1911年(明治44年)大阪毎日新聞と東京日日新聞は合併し、以後朝日新聞とともに全国紙として大きく成長して行きました。明治から大正にかけての活版工はどういう立場にあったでしょうか。毎日新聞百年史から引用してみます。

 「ここで活版工という言葉を改めて考えてみたい。一般に活版工というのは活字を拾いまた組む職工のことで、決して高級な職業だとは思われていない。……

 しかし活版工というものは、記者の書く原稿を一般の人に読めるように活字体でリライトする役割を果している。リライターというものは、記者の書いた原稿をただ機械的に模写しているのではない。その内容を理解し、一般の人に読み得る活字体に置換えているのである。したがってよき活版工というものは豊富な常識の持主であり、知能の優れた者でなくてはならない」(458P)

 「まず、大阪と東京ではとくに活版工が非常に違っていた。大阪では早くから社内養成制度を確立していた。東京は長い間、いわゆる渡り職人の制度が行われていた。大阪で社内養成制度を確立したのは、明治20年の終りから30年ごろであったと思われる。大阪方が渡り職人をきらったのは、いわゆる職場士気の低下を恐れたのである。一方、東京は渡り職人制度が長く行われていた。先輩からよく聞かされた言葉であるが、昔は東京日日新間の活版場を“活版大学"といったそうである。東京日日に活版工としてはいるためには相当な腕をもっていなければならなかった。この渡り職人制度のよいところは、ある意味で技術がつねに公開されていることであった。その設備にしても、作業のやり方にしても、またその腕にしても、いわばつねに第三者の批判を受ける立場にあったのである。それによって改良され改善されていった。そしてだれいうとなく“活版大学"の異名をとったのである」(481P)

 「昭和8年2月東日の工員、給料55円也。それでも年に1回か2回の昇給(5円が最高)があり、とくに賞与は年4回もあったので、余裕のある生活ができました。忘れられない思い出は当時初めて開かれた文選競技大会で特賞を獲得、一気に金8円也昇給したことでした」(村越清太郎さん・植字=1966年2月26日退職、社報「お世話になりました」から)

◇戦中・戦後の混乱の中で

 百年史は戦時中について次のように記しています。

 「最後に戦時中の総括として取上げておきたいことは、各社の協力ということである。新聞社は非常に競争の激しいところで、技術的にも互いに秘密を厳重に守っている。しかし戦時中はお互いに共同防衛の形をとり、よく協力した。これは言論統制のため軍部から仕向けられたことばかりではなく、むしろ軍部の処置を協同で防衛しようということから出発したとみられることも多い。こうしたことは戦後も続いている。実際問題として技術上の秘密などというものは、そう多く有るものではない。お互いの技術を公開し、共同で研究した方がはるか有利なものがある。戦時中の共同防衛はこのことをよく知る結果となり、現在にも及んでいる」(508P)

 百年史で、「技術編」を担当したのは、東京活版部副部長だった古川恒さん(毎日新聞労組委員長だった古川和さんは甥)です。膨大な「技術編」は、古川さんの調査と思いが込められた貴重な資料です。

 苦難の中で生まれたこのような総括が、現在の新聞制作にどのように生かされているかは分かりません。しかし活版労働者が築いてきた技術とその歴史は記録に残すべきだと思います。

(福島 清・つづく)