随筆集

2023年1月17日

『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑧ ——お手柄! Hカメラマン、Sポン焚き

1932(昭和7)年5月15日付「東京日日新聞」

 この新聞は、チャーリー・チャップリン(1889~1977)が初来日、東京駅で歓迎のファンにもみくちゃにされたことを伝える「東京日日新聞」朝刊社会面=1932(昭和7)年5月15日付=である。

 何故かチャップリンは「東京日日新聞」の社旗を持っている。左は、兄のシドニーである。

 写真部のカメラマンが「この旗を記念に持って」と頼んでパチリ、いやマグネシウムを焚くから「ボ~ン」とやったのだろう。

 誰が撮ったのか。元写真部長石井清が『新聞写真』(日本新聞協会1970年刊)に書き残しているのだが、「Hカメラマン、Sポン焚き」とイニシャルなのである。

 当時のカメラマンで「H」は橋本芳衛しかいない。「S」は、佐藤振寿? 佐藤はこの年の2月に入社、暗室仕事と、合い間に「ボンタキ」に出掛けたと書いているからである。

 チャップリンは5月14日午前8時、神戸港に着いた。午後0時29分、三宮駅発超特急「燕」の増結した1等車に乗車、午後9時20分終着東京駅へ。

 《チャーリー来る!異常な昂奮に酔った人間、人間、人間の群れは、到着前3時間の前の6時といふのに降車口(現在の丸の内北口)をいっぱいにしてかれの顔の、かれの銀髪のひとすじだに見逃さないといふ意気込みをみせている。凄惨!ちょっとそんな感じだ》

 《列車到着の5番ホームは、これまた金10銭の入場券でかれを見る優先権を得ようとするファンで一杯だ。何のことはない。震災当時の避難民の喧騒と怒号が渦巻いてゐる》

 一夜明けた日曜日、チャップリンは官邸に招かれていた。5・15事件が起きた。犬養毅首相が海軍の青年将校に「問答無用」と射殺された事件である。チャップリンは予定を変更して相撲を観戦、危うく難を逃れたという。

 チャップリンは20日間日本に滞在、6月2日横浜港から「氷川丸」で帰国した。その間、歌舞伎座や明治座で役者たちと交流。「一国の文化水準は監獄を見れば分かる」と小菅刑務所(現・東京拘置所)を視察している。

 さて、肝心のカメラマン「H」橋本芳衛さんは、1919(大正8)年「写真場助手」として入社。カメラマンとなり、36(昭和11)年に写真部デスク。そのあと資料部副部長。写真資料を担当していた。

 『大阪毎日新聞東京日日新聞特派員従軍手帖』(1938年刊)に従軍して砲弾を浴び、首筋から血を流しながら鉄兜をしっかりと抑え、弾雨の中を身をかがめて、部隊本部に飛び込んだ、と綴っている。

 1959(昭和34)年没、62歳。

(堤  哲)