2023年1月30日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑩ 早川弘——知覧で特攻機の見送り写真を撮った
左のモノクロ写真は、西部本社のカメラマン早川弘(ひろむ)さん(81年逝去64歳)が撮影した。1945年4月12日、特攻基地・知覧飛行場(鹿児島県)。
出撃する特攻機を前に知覧高等女学校の生徒らが桜の枝を持って見送った。5日後、同月17日付の毎日新聞大阪本社版朝刊に掲載、現在、知覧特攻平和会館に展示されている。沖縄の米軍艦船を狙った特攻作戦で亡くなった1036人のうち、439人が知覧から出撃した。
右のカラー写真は、渡邊英徳東京大学大学院情報学環教授が、AIでカラー化した。毎日新聞大阪本社には、戦中写真が6万点以上保管され、そのデジタルアーカイブ化を東大・京大と共同で進めている。創刊150年記念事業のひとつである。
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「飲んだくれのオヤジで、こんな写真を撮っていたことを知りませんでした。スゴイな、と思います。今では尊敬しています」
早川さんの長男巌さん(82歳)。大阪スポニチにカメラマンとして入社、写真部長→編集局次長→事業本部長を務めた。
1964(昭和39)年の東京五輪では、親子で写真取材している。巌さんは陸上男子100㍍9秒9で優勝した米ボブ・ヘイズ選手の写真を撮った。「オヤジは前線本部でデスクワークだったようです」
巌さんは、昨年7月知覧飛行場の跡地を訪ね、その模様が毎日新聞で紹介された。
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見送った知覧高女前田笙子さん(当時15歳)の「特攻日記」が残っている。
特攻機の操縦席は、第20振武隊穴澤利夫少尉(当時23歳)だった。《四月十二日の第二次総攻撃です。穴澤さんが一番最後でした。一生懸命お別れのさくら花を振るとにっこり笑った。きりゝ鉢巻姿の穴澤さんが何回と敬礼なさる。
パチリ・・・後を振り向くと映畫の小父さんが私達をうつして滿足してゐる》
「映畫の小父さん」と誤記されているが、早川カメラマンである。
新聞で紹介された早川カメラマンの写真は、他に①出撃命令待つ間の一刻鍬を執る振武隊員②女子整備員も神風鉢巻締めて特攻機整備③特攻隊最後の無電を必死で受ける電信兵の計4点だが、整備員と最後の杯を交わす特攻隊員や兵舎で眠る隊員も撮っている。「最後の夜くらいは綿布団で寝かせてあげたい」と住民が布団を提供したという。
早川弘さん=写真・右=は、37(昭和12)年入社。大阪の本社から西部支社(当時)に転勤。知覧には、旧満州(現中国東北部)従軍から帰国後、出張取材を命じられたとみられる。原爆投下後の長崎でも取材したという。
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1964年東京五輪毎日新聞オリンピック報道本部の取材配置表に「神宮前線本部【写真】早川弘」とある。配置表から【写真】を抜き出してみた。(重複者は略)
報道本部・社内取材本部【写真】岩本重雄、大沢勇之助、石井周治、染谷光雄、吉村正治、岩渓清光、寺尾務、松野尾章、荒井英雄、川島良夫、辻口文三、鈴木久俊、東康生、中西清、米津孝
神宮前線本部【写真】早川弘、坂口喜三、木村勝久、河合邦雄、大須賀興屹
駒沢前線本部【写真】山添昭二、大住広人、石川孝昌
競技会場・陸上競技【写真】東喜一、土橋亨、関口賢次郎、仁礼輝夫、橋本保治
バスケットボール【写真】小野克己、新倉義政
ボート【写真】影山日出夫、接待健一
ボクシング【写真】野末哲男
自転車【写真】橋本紀一、大宮晴夫、福井和博
馬術【写真】三十尾清
フェンシング【写真】中村太郎
体操【写真】鈴木茂雄
ホッケー【写真】唐沢信一
柔道【写真】津川政二郎
近代五種【写真】大家璋三
射撃【写真】山本哲正、井上豊和
水泳【写真】阿部三郎、土谷忠臣、牧野誠
バレーボール【写真】山内巌、関根武
ウエイトリフティング【写真】藤田君幸
ヨット【写真】佐藤竜彦
51人を数える。何故か東京本社写真部長日澤四郎の名前がない。
(堤 哲)