2023年3月6日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑯ ——「サン写真新聞」1946~60で活躍のカメラマンたち
作家戸川幸夫(1912~2004)が社会部から「サン写真新聞」取材部デスクになったのは、創刊3か月後の1946(昭和21)年7月21日付けだった。当時35歳。
「サン写真新聞」は、タブロイド判で横組、4㌻。写真を主体にする画期的なビジュアル新聞だった。しかし、売れ行きはイマイチ。「何かドギモを抜くようなことをやらねば」と、戸川は警視庁鑑識課から入手した小平義雄事件の被害者である若い女性の全裸の死体写真を掲載したのだ。8月21日付けの1面だった。
《その反響は大きく「アッという間に売り切れ続出です」》
戸川は、復刻版『サン写真新聞 戦後にっぽん』(毎日新聞1989刊)に書き残している。
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《雨後の筍といはれた新興諸紙の中にカメラで飛び込んだ「サン写真新聞」は百号を満たぬのに一日の発行部数11万を割らぬ立派な竹に成長してしまった。「ここまで来ればもう大丈夫」》
社報は、こんな前書きをつけて、出向者の名前を羅列している。
写真部から「サン」への第1陣は、木村謙二(初代部長)、阿部徹雄(第3代部長)、片桐幸、岩本重雄の4人。 第2陣に、石井清、石井周治、寺尾勇、鵜殿七郎、納富通。 第3陣(47年8月)で安保久武(第2代部長)、染谷光雄、桜井敬哉、尾野勇、吉村正治。
納富は「キミ、明日からサン写真に行ってくれ」と当時の井上繰次郎写真部長からいわれたという。暗室も当初は共用していて、本紙写真部との交流人事は日常茶飯だった。
他に大沢勇之助、大山正己、酒井慎一、仁礼輝夫、山内巌、吉田達二ら(五十音順)。
48(昭和23)年入社で、当時最若手だった川島良夫は、ことし2月17日に97歳の誕生日を迎えた。川島は、ベトナム戦争でゲリラの兵士たちに捕まった。40年後その兵士に再会、元外信部の北畠霞と共著で『ベトナム戦場再訪』(連合出版2009年刊)を出版した。
サン写真新聞OB会「同人会」の幹事を長く務めていた。
サン写真新聞社は、週刊サンニュースを発行していたサン・フォト・ニュース社と毎日新聞社が共同出資して設立。初代社長は山端祥玉(長男山端庸介は長崎原爆投下直後に写真撮影したことで知られる)。元写真部長三浦寅吉(写真部記者列伝⑤で紹介)はサン・フォト・ニュース社の専務を務めており、「サン写真新聞への道を拓いたのは三浦写真部長」と安保は毎日新聞東京本社写真部OB会編『【激写】昭和』(平河出版社1989年刊)に書いている。
サン写真新聞社の2代目社長は森戸武雄、3代目は石川欣一、4代目一色直文。いずれも毎日新聞OBだ。石川は大毎の第2代写真部長だった。戦時中、マニラ新聞に出向となり、敗戦で「新聞報道関係者23名の先頭に立って米軍に投降」(『比島投降記』)。帰国後、出版局長から3代目社長になった。米プリンストン大学出身、NY特派員・ロンドン支局長を務め、寝言も英語でしゃべったといわれた。
「フューチャー写真は、サン(写真新聞)で学んだ」と、カメラマン吉村正治(写真部記者列伝⑨で紹介)がよく言っていた。
しかし、残念ながら1960(昭和35)年3月31日で休刊となった。
その復刻版を企画したのが、「毎日グラフ」別冊編集長田中薫(2017年没76歳)だ。『サン写真新聞 戦後にっぽん』全15巻を予定したが、1989~90年に10巻まで出版、残り5巻は出なかった。田中は退職後、宮崎公立大学教授となり、「『サン写真新聞』と写真ジャーナリズム」を同大学の紀要に書いた。思うように売れずに、出版中止の命令が出た。
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丸の内のオフィス街に新聞全紙を配る丸の内新聞事業協同組合の理事長を長く務めた古池國雄(元毎日新聞東京本社販売局長、2013年没92歳)は、海軍士官で終戦を迎え、サン・フォト・ニュース社に入社。最初の仕事が「サン写真新聞」創刊の下働きで、「社名と題字の登録商標をとりに当時の商工省へ、立ち売り(即売)の場所の使用許可を取りに警視庁へ行きました」と話していた。
「サン写真新聞」創刊から100号まで、現物をファイルしていた。復刻版を発行する時に大いに役立ったと自慢していた。
(堤 哲)