随筆集

2023年3月13日

『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑰最終回 ——若手写真家を発掘した「カメラ毎日」編集長・山岸章二

「カメ毎」1965年4月号
「舌出し天使」の1コマ
山岸章二氏

 写真家立木義浩がデビューしたのは『カメラ毎日』1965年4月号「舌出し天使」だった。56㌻にわたって掲載された。当時27歳。《雑誌に写真集が綴じこまれた感じを出すのが、本号のねらいでした。…この試み、カメラ雑誌はじまって以来のことですが、立木氏のシャープな感覚や混血のモデル山添のり子さんをはじめ、友人、知友のあたたかい協力など、その内幕も話題豊富な企画でした》と編集後記にある。筆者Uは、後のカメ毎編集長宇野嘉彦デスクであろう。

 写真構成・和田誠、詩・寺山修司、解説・草森紳一。《夢をみている時、いくら奇妙であっても私たちは波間に漂うイカダのようにただ運ばれていくにすぎないが、この「舌出し天使」のページも波間のイカダのようにめくっていきたい……》

 この企画は、編集部員山岸章二が取り仕切った。その後、森山大道、奈良原一高、高梨豊、横須賀功光、大倉俊二、沢渡朔らを特集。「カメ毎」は若手写真家の登竜門となった。山岸は「山岸天皇」とも呼ばれ、カリスマ編集者となった。

 編集長は、金澤秀憲(喜雄、2006年没94歳、写真部記者列伝③で紹介)だった。金澤は「カメ毎」創刊時に招いた写真家ロバート・キャパにアテンド、「編集長時代、写真は山岸章二、メカは佐伯恪五郎に全部任せた」といっていた。

 カメ毎編集部の実力者、山岸と佐伯の頭文字から、カメ毎は「山佐商会」と呼ばれた時代があった。

 この原稿を書くために調べていたら、立木義浩夫人美智子さんは、元毎日新聞記者大島鎌吉(1985年没76歳)=1932年ロス五輪三段跳銅メダル、1964年東京五輪日本選手団の団長=の娘さんと分かった。

 「激写」の流行語を生んだ篠山紀信は日大芸術学部写真科、東京綜合写真専門学校を卒業しているが、その卒業制作が「カメ毎」63年4号に掲載されている。篠山が22歳の時の作品である。

「カメ毎」63年4月号

 これは金澤の前任岸哲男編集長の時だが、山岸が発掘したのだろうか。

 72年10月号には、荒木経惟(当時32歳)の妻「陽子」が10㌻特集で載っている。

 山岸は、1949(昭和24)年3月仙台工専(現東北大学工学部)を卒業、同年12月、毎日新聞に入社した。この時、同時に3人が写真部配属になったが、他の2人は佐伯恪五郎(山岸の後のカメ毎編集長)と中西浩(のち東京本社写真部長)だった。山岸と佐伯は郷里が長野県上田市で一緒。中西は、戦後の学士カメラマン第1号といわれた。

 ところが山岸は結核を罹って病気療養、54年3月内勤の調査部へ。カメ毎に異動したのは58年8月だ。佐伯はカメ毎創刊時からのスタッフで、佐伯の誘いがあったと思われる。69年10月デスク、76年3月編集長。

 その間、1971 年渡米してMOMA(ニューヨーク近代美術館)ジョン・シャーカフスキー写真部長と知り合い、J・H・ラルティーグ、ダイアン・アーバス、リチャード・アベドンの3人展を日本で開催。1974 年にはMOMA の『NEW JAPANESE PHOTOGRAPHY』展にディレクターとして携わった。

 78年5月、50歳を前に退職。ライバル誌の編集長に請われて79年1月号から「アサヒカメラ」で写真時評「New Frankness」の連載を始めた。

 《毎月率直、淡白、正直(研究社『新英和大辞典』FRANKNESSの項)に書きましょう。それも所詮、時代や状況にはまってのでしかないだろうから、そこにNEWをつけることによって、より旧態にとらわれぬ、そんな覚悟です、と》

 第1回の見出しは《都美術館「写真と絵画」展は器ばかりで中身不在だ》だった。

 連載の9回目、79年9月号は遺稿だった。その見出しは《画一化のいっぽうで地域文化をどう再編成していくか》。山岸が、51歳の誕生日に自殺したのだ。

 山岸からカメ毎に誘われて、最後のカメ毎編集長となった西井一夫(2001年没55歳)が『写真編集者 山岸章二へのオマージュ』(窓社・2002 年)でその死を悼んでいる。

 「カメ毎」歴代編集長は、以下の通りだ。

① 井上繰次郎:1954年6月創刊号~。24(大正13)年入社。戦後2代目の東京本社写真部長、サン写真新聞編集局長。早大山岳部・スキー部の創設時の部員で、1953年サンモリッツ冬季五輪の記事を「毎日年鑑」に書いている。編集方針は「美しく楽しい写真雑誌」。表紙にカラー写真を使ったのはカメラ誌で初めてだった。戦前下野新聞主筆を務めた。1971年没70歳。

② 山下誠一:57年1月~。31(昭和6)年入社。社会部→整理部。戦前セレベス新聞、マニラ新聞へ出向。戦後54(昭和29)からカメ毎編集部。1963年没54歳。

③ 岸哲男:58 年1月~。写真評論では第一人者だった。《「カメ毎」を6年間編集してつねにイライラさせられたのは、新聞社の出す雑誌でありながら今日ただいまのニュースがすこしも盛りこめないことであった》と書き残している。著書に『写真ジャーナリズム』(ダヴィッド社69年刊)、『戦後写真史 解説・年表』(同74年刊)。59 年1 月号から1年間、土門拳「古寺巡礼」を連載。『土門拳の世界』(土門拳記念館85年刊)を出版した。2002年没93歳。

④ 金沢秀憲:63年8月~。2006年没94歳。このHP写真部記者列伝③で紹介。

⑤ 依田孝喜:66年9月~。1998年没81歳。このHP写真部記者列伝②で紹介。

⑥ 宇野嘉彦:72年10月~。46年入社。サンデー毎日→54カメ毎編集部。2017年没91歳。

⑦ 北島 昇:75年8月~。48年入社。68年点字毎日編集長。カメ毎編集長から76年昭和史「20世紀の歴史」編集長。1988年没65歳。

⑧ 山岸章二:76年4月~。1979年没51歳。

⑨ 佐伯恪五郎:78年6月~。2004年没76歳。

⑩ 武田忠治:82年3月~。55年入社。京都支局→大阪社会部→サンデー毎日。「旅にでようよ」デクス→図書第4部長から就任。編集長経験者で唯一存命。2月に93歳の誕生日を迎えた。元気だ。

⑪ 西井一夫: 84年2月~。1985年4月号をもって休刊。通刊379号。2001年没55歳。

 1926年創刊で日本最古のカメラ誌を誇った「アサヒカメラ」は2020年7月号で休刊。「日本カメラ」(1948年創刊)も2021年4月号で休刊。日本の3大カメラ誌が消えた。

第9代編集長佐伯恪五郎
初代編集長井上繰次郎
創刊号54年6月号
終刊号85年4月号

 最後に元「東京日日新聞」カメラマン佐藤振寿。カメ毎1980年3月号から「新聞写真の軌跡」の連載を始めた。1回4㌻だからかなりの分量だ。新聞写真の歴史から始まって、自身のカメラマンとして体験談など、休刊の85年4月号が連載第37回。三島事件で総監室に2人の首がころがった写真を朝日新聞が掲載したが、その撮影した模様を書いている。

佐藤振寿著『上海・南京 見た撮った』(偕行社)から

 《新聞写真の特ダネはどこにあるかわからない。ただ事件にあったカメラマンの好運、その撮影努力によって結実するものである。(未完)》

 「未完」が残念な思いを語っているように思える。まだまだ続けるつもりだったのだ。

 佐藤は、従軍記者として南京入城を撮影(1948年12月17日)。社会部の従軍記者から頼まれて「百人斬り競争」の将校2人の写真を撮ったことで知られる。

 履歴に1932(昭和7)年入社。37(昭和12)年9月~翌年2月まで上海・南京方面、39(昭和14)年2月~10月南支方面従軍取材。41(昭和16)年病気のため退職。

 その後、写真協会「報道写真」編集部、戦後は時事画報の「フォト」編集長を務めるなど写真ジャーナリストとして活躍した。2008年没95歳。

(堤  哲)