随筆集

2023年3月14日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その24 渋谷—駅周辺の再開発と渋谷川沿いの景色(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 奇数月の14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53496876.html

 前回にも書いた大学写真部の旧友たちと、昨年の12月9日と今年の1月13日、渋谷を歩いた。

 12月9日の待ち合わせ場所は渋谷駅のハチ公前。最初に渋谷ヒカリエの11階から渋谷駅周辺の再開発現場を展望。それがph1~ph3の写真である。ph4は4階にある庭園でのスナップ。ph5は宮益坂から見た渋谷川上流方向の跡地(写真はph1のみ掲載)。

 それより、渋谷センター街を抜け、再開発のため近々閉店するという東急百貨店本店と併設のBunkamura(文化村)を一目見たあと、その南側の斜面にある道玄坂のラブホテル街と百軒店商店街を歩いてまわった。さらに駅南側の再開発のようすをのぞいてから、渋谷川に沿って並木橋まで歩く予定だったが、あちこちで道草をすることが多く、途中で陽が落ちてしまった。

 そんなことから、歩き損なった渋谷川の部分は、目的地を並木橋から天現寺橋付近までに延長し、年の明けた1月13日に改めて歩いてみることになった。ph6~ph20(写真は割愛)は、その日にスナップした渋谷駅周辺と渋谷川沿いの街並みである。

 渋谷は周りを丘陵に囲まれた谷間にある。その中央を南北に流れていたのが渋谷川である。1885(明治18)年、その流路に沿って日本鉄道品川赤羽線(現JR山手線・同赤羽線)が敷設され、渋谷停車場(現渋谷駅)ができた。渋谷川の渋谷駅より上流は1964(昭和39)年の東京オリンピックまでに埋め立てられた。上流には隠田川と宇田川(河骨川)二つの流れがあり、渋谷駅北側の宮下公園南側で合流していた。

 渋谷川の川名はこの合流点から天現寺橋までの通称である。江戸時代の渋谷は上渋谷村・中渋谷村・下渋谷村に分れていた。渋谷駅の辺りは中渋谷村で、天現寺橋の架かる広尾のあたりは下渋谷村に属していた。上流の一つ隠田川は、神宮前公園(神宮前6丁目)から宮益坂までの流域が上渋谷村に属していた。もう一方の宇田川は、現在の宇田川町の中央を東南方向に流れていた。その流路跡が井の頭通りになるが、この宇田川町の一帯もやはり上渋谷村の内だった。

 渋谷は街歩きの会でこれまでも何度か歩いている。

 最初に歩いたのは2013年だった。メンバーの一人福田和久君の話では、渋谷は渋谷駅を中心にした大規模な再開発計画が進行中で、これから10数年をかけて、大きく変貌しようとしている。この年の3月15日には、その計画の一つとして、東急東横線の渋谷駅から代官山までの線路が地上から地下に切り換えられる、というのである。そこで、まず1月18日に宇田川町と道玄坂あたりの繁華街を歩いたあと、翌月の13日、東横線に沿って代官山から渋谷までを歩くことになった。

渋谷駅の再開発工事。渋谷ヒカリエ11Fから。正面手前は銀座線渋谷駅。その奥が渋谷駅で、渋谷スクランブルスクエア中央棟と西棟が2027年に開業する予定。駅地下にはいまも渋谷川が流れる。2022.12.09

 福田君は大学写真部の1年後輩である。彼は神宮前2丁目で生まれ育ち、いまもそこに住んでいる。子どものころは、すぐ近くを渋谷川(隠田川)が流れていた。しかも勤め先の音楽会社は自宅から歩いてせいぜい10分のところにあった。

 そもそも私たちが街歩きを始めたのは、2011年に彼が定年退職したのがきっかけだった。彼と同期の宇野敏雄君によると、本人はこれから暇になるから街歩きをするつもりだということである。宇野君と3年後輩の柏木久育君と私は、大学を卒業した後も、月に一度は顔をあわせる間柄で、それぞれ街歩きを続けていた。

 それなら、いっそのこと、4人で街歩きを始めたらどうだろう、と提案してみた。多久彰紀君や伊勢淳二君も同じ年回りだから、いずれ近いうちに暇になる。誘ってみれば、彼らも乗ってくるに違いない。というようなことで、4人が6人になり、やがて菊池武範さん、鈴木淑子さん、笹井温迪君も加わり、会員は9人になった。

 私たちの会は誰が中心でもなければ、規約のようなものもない。街歩きの探索地はみんなで相談し、いまは案内役と下見役を、都心の近くに住む宇野・福田・柏木の3君が引き受けているが、もとは祭礼の頭屋や念仏講の寄合いのように持ち回りにしていた。当日は、12時に集合し、4時間ほど歩く。そのあとは飲み会。コロナ渦のいまは1時間か1時間半に自粛しているが、ふだんは街歩きより長くなる。(以下略)