随筆集

2023年5月10日

「幻に終わった横浜新支局の建設」の歴史を「有楽ペン供養」から

 「ゆうLUCKペン」の前身「有楽ペン供養」第5集に、「幻の建設に終わった横浜支局」を元地方版編集長の梶ヶ谷忠良さん(2002年没90歳)が書き残している。

 何故、1982(昭和57)年発行の「有楽ペン供養」第5集に出会ったか。「ゆうLUCKペン」第45集の刊行記念パーティーに、元運動部長・中島章隆さんが創刊号から17号までを持参したことにある。詳細はこの毎友会HP「集まりました」参照。

 この話を横浜支局駆け出しの元東日印刷社長・取違孝昭さんにすると、「昔の横浜支局の写真が携帯に入っている」と送ってくれたのが、次の写真だ。写真部松村明さん撮影。

 写真の横浜支局は、1929(昭和4)年11月に完成した。その披露は2日間にわたり、2千人を招待したという。

 『新聞王・本山彦一伝』(昭和7年刊)に、「八層楼の東京日日新聞横浜支局」と紹介されている。

 《昭和4年9月、25万円の巨費を投じ、8階建ての新館を建築した。4階は500人を収容し得る講堂。地上150尺の高塔には、昼夜「天気予報」を掲げ、市民の便を図り、屋上には2個の大ネオンサインと「探照灯」を備え、階上への昇降は、10人乗り自動式エレベーターが設けられてあるなど、設備の完璧と相まって大横浜の一異彩となっている》

 関内の名物ビルだったようだ。

 梶ヶ谷さんはこう書いている。《旧横浜支局は、昭和20年4月の横浜空襲で焼け野原となった関内地区に残った3つの名物建物の1つである。1つは隣接の国際親善病院、もう1つは旧第15銀行ビル(現神奈川新聞社)であった》

 敗戦でビルは進駐軍に接収され、解除になったのが52(昭和27)年。老朽化で支局を移転したのが73(昭和48)年というから、この写真はその頃撮影されたと思われる。

 新横浜支局は、桜木町駅前に土地を確保して、建設計画がつくられた。

 梶ヶ谷原稿によると、6階建ての高層ビルで、1階は銀行、2・3階は支局、4・5・6階が貸ビル、屋上には電光ニュースを設置する計画だった。

 しかし、建設費用に行き詰まり、結局、「毎日新聞横浜支局建設用地」の板囲いのまま、ビルが建つことはなかった。

 《この幻の青写真に無念の涙をこらえることしばしばだが、このような構想がいくどか練られていたことを、横浜支局の戦後史のなかに書きとめておくことも無駄ではないと思い、「有楽ペン供養」の余白を借りた次第》

(堤 哲)