随筆集

2023年6月16日

日本の野球記事の嚆矢は相嶋勘次郎

 毎日新聞11日、日曜日の1面特集は、名探偵シャーロック・ホームズを生んだ作家コナン・ドイル(1859~1930)だった。ロンドン支局長篠田航一さんが健筆を振るった。

1908年ロンドン五輪のマラソン「ドランドの悲劇」(『「毎日」の3世紀』)

 ドイルは1908(明治41)年ロンドン五輪のマラソンのゴールシーンをスタンドで見ていた。1着でゴーインしたイタリアのドランド・ピエトリ選手はゴール直前で倒れ、役員の助力でゴールしたため、のちに失格となった。「ドランドの悲劇」といわれる。

 「……再び彼は崩れ落ちそうになったが、親切な人たちが支えて転ぶのは免れた。彼は私の席からほんの数フィートのところにいた。身を乗り出し手に汗を握る群衆の中、私は憔悴して黄色くなった顔、光を失い表情のなくなった瞳、眉の上まで乱れてたれ落ちた髪の毛を見つめた」(デイリー・メール紙1908年7月25日)と寄稿している。

 大阪毎日新聞記者相嶋勘次郎(当時40歳)もこの現場を目撃した。虚吼生のペンネームで「マラソン競争」を9月7日から12日まで5回連載している。

 この相嶋記者について、「野球文化学会」創設者の1959年入社諸岡達一さん(86歳)は1896(明治29)年6月7日付大毎朝刊2面に掲載された一高対横浜外人連合軍の試合の記事を書いた記者ではないか、と野球文化学会論叢『野球博覧』(2014年刊)で論考している。

相嶋勘次郎(虚吼)

 『明治野球史』(功刀靖雄刊)に「明治29年の横浜外人チームと一高の試合により、初めて新聞紙上に野球が紹介されるようになった」とある。

 野球記事の嚆矢だったのである。

 諸岡さんによると、当時大毎東京支局(1889=明治22=年開設)には相嶋勘次郎のほか友野荘次郎、井原輝忠、菊池清(幽芳、初代大毎社会部長)の4人がいた。

 当時の記者は、探訪が持ってきた材料をもとに記事を書いていて、直接取材に出ることはあまりなかった。しかし、「相嶋勘次郎は俳人であり、英語に興味を持つハイカラ人間だった」。だから、というのだ。

 日清戦争に従軍記者として派遣され、正岡子規(新聞「日本」の従軍記者)とも現場で一緒になっている。

 相島勘次郎(1868~1935)は、常陸国筑波郡小田村(現在の茨城県つくば市)出身。慶應義塾大学を卒業後、大阪毎日新聞社に入社。1900(明治33)年から02(明治35)年までのアメリカ留学、帰国後大毎通信部長。06(明治39)年に大毎が東京に「毎日電報社」を創設すると副主幹となり、11(明治44)年には大毎が「東京日日新聞」を買収、東日副主幹となった。12(明治45)年の第11回衆院議で当選して代議士となり、次の総選挙でも再選された。

(堤  哲)