随筆集

2023年7月27日

平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その26 横浜―釣鐘状入海の現在―

(抜粋) 奇数月の14日更新
文・写真 平嶋彰彦
全文は  http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53496878.html

 今年になって大学写真部の旧友たちと3回にわたって横浜を歩いた。この街歩きの仲間については、連載23と24でも触れている。ご覧になっていただきたい。

 3月は、近代建築の数多く残る横浜港に沿ったいわゆる関内地区。4月には、伊勢佐木町→横浜橋通商店街→三吉橋商店街→真金町→黄金町→日ノ出町→宮川町→野毛町。5月は、寿町→石川町(地蔵坂下)山手町→大芝台(中華義荘・地蔵王廟)。4月と5月に歩いたのは、いずれも関外地区ということになる。

横浜赤レンガ倉庫。中区新港1-1。2023.03.16

 ふだんの行き先は東京の都心が中心である。といっても、ときどきは東京を離れる。神奈川県の小田原や箱根、あるいは千葉県の野田や行徳を訪れたこともあった。横浜には近代の文化遺産ともされる名建築が数多く残されている。しかし、聞いてみると誰も彼もていねいに歩いたことはないらしい。では一度横浜に行ってみないか、ということになった。

 街歩きのコースと下見は、いつものように、福田和久・宇野敏雄・柏木久育の3君である。自分1人のときは別だが、この仲間たちと歩くとき私自身は下調べをしない。資料にあたるのはいつも撮影の後である。下見がしっかりしていることもあるが、むしろ、出たとこ勝負で写真を撮ることの方が新鮮で面白いからである。

 写真は記録である。記憶の拠り所になる。写真は突きつめれば、ある時ある場所で自分の見た何かである。デジタルカメラだから、撮影時間は自動的に記録される。撮影場所も記録させられる。しかし、地名がそのまま記録されるわけではない。そこで、パソコンのモニターで画像と地図を見比べながら、歩いた道筋をもう一度たどってみる。すると、撮影時には気づかなかった何かが見えてくる。街歩きのもう一つの魅力といえる。

 横浜市の伊勢佐木町のあたりがその昔は入海だったことも、そんなふうにして知った。すると、メンバーの鈴木淑子さんから次のようなメールが届いた。

 「横浜は釣鐘型の入り江になっていた場所を、江戸時代初期に埋め立てたようです。横浜では、吉田新田として、小学校の社会の教科書にも出てきます。先日歩いた所は、昔は海だったということですね !!」

 鈴木さんの書いているように、入り江は釣り鐘状の形になっていて、これを干拓して耕地化したのだという。釣鐘の頂点から胴体に相当するのは、現在の大岡川と中村川に挟まれた内側、また釣鐘の底に相当するのはJR根岸線の桜木町から石川町までの間である。この入海に注いでいたのが大岡川で、それまでの河口は現在の京急南太田駅付近にあった。新田開発するにあたり、それを大岡川と中村川に分流するばかりでなく、流路を延長して、人工河川を開削したのである。

 開発にあたったのは摂津出身で江戸に出て木材や石材を取り扱っていた吉田勘兵衛という商人である。工事は1656(明暦2)年に着手したが、翌年の大雨による事故で失敗。2年後に再度着手して、1667(寛文7)年に完成した。新田は開発者に因んで吉田新田と呼ばれた。1656年といえば、明暦の大火の1年前で、江戸は開府以来の都市計画がようやく一段落し、外縁に向かってさらに拡大化を図る時期にあたっていた。

(以下略)