随筆集

2023年10月13日

島根で、藤井聡太・羽生善治王将戦対局の部屋に泊まった!

対局写真↑  部屋の写真↓

 10月9日の出雲駅伝に合わせて、ワセダの仲間と2泊3日の旅をした。出雲から足をのばして島根県大田市三瓶町の国民宿舎「さんべ荘」へ。案内された部屋「松虫草」が、ナント藤井聡太王将vs羽生善治九段・王将戦第五局の対局室だった(2023年2月25・26日)。

 部屋にはその時の写真があった。左から2番目は当時の毎日新聞大阪本社代表丸山雅也さん(現顧問)ではないか。社会部の後輩である。

 将棋盤が用意されていた。といっても対局に使われたものではないが、早速その時の棋譜を携帯電話に呼び出した。写真は終了図。手前が藤井王将である。藤井王将はその後、10月11日、八冠を達成したのはご存じの通り。

 対局当日、藤井王将は天然あなごを使った「大田(おおだ)の大あなご重」、羽生九段は三瓶(さんべ)そばと天ぷらのセット「そば三昧」を昼食にとったなどの記事もあった。

 それにあやかって翌日、大田市内での昼食は「大あなご」にしたら、その食堂で元大田高校校長の後輩にばったり。「こんな偶然があるの。胸の震えがおさまらない」と学生時代に一緒だったワセジョ。「縁結びの神ですね、出雲大社は」。

 石見銀山世界遺産センターにも寄った。そこに藤田傳三郎(1841~1912)の写真が展示されていた。大阪社会部で一緒に仕事をした藤田昭彦のお祖父さんだ。

 傳三郎が起業した藤田組(現DOWAホールディングス)がここに近代的な製錬所を建設したが、「不採算から開始から1年半で1896(明治29)年10月に操業を停止」と説明にあった。

 藤田組支配人といえば本山彦一(1853~1932)である。本山は「時事新報」から1986(明治19)年、創業者福沢諭吉(1835~1901)とともに大阪へ旅をして、その年の7月に藤田組に入社して支配人になった。

藤田傳三郎
藤田組のハッピ
本山彦一

 藤田組というと岡山県児島湾の干拓で知られ、「岡山市藤田」の地名にまでなっているが、石見銀山にも採掘権を持っていたのだ。当時は「大森鉱山」と呼ばれ、その作業衣もあった。

 本山は、1889(明治22)年「大阪毎日新聞」相談役、1903(明治36)年社長に就任。東京進出を図って、11(明治44)年「東京日日新聞」を吸収して、全国紙体制を築いた。

(堤  哲)