随筆集

2024年1月22日

『東大ラグビー百年史』から① ラグビー記者・池口康雄さん

 ラグビー記者・池口康雄さんは、『東京大学ラグビー部百年史』(2023年刊行)に「ラグビー界の語り部」と紹介されている。東大ラグビー部生みの親・香山蕃さんに亡くなる前日にも会っており、その著『近代ラグビー百年』は香山蕃追悼をうたっている(1981年ベースボール・マガジン社刊)。

 池口さんは、成城学園で1935(昭和10)年の第18回全国中学ラグビー大会に右ロックとして出場した。FB選手が家族の反対で出場できず、14人で戦って1回戦で完敗した。

 旧制高校のリーグ戦にも出場、一高には30-0で勝っている。

 39(昭和14)年東大文学部に入学。1年生ながら満洲遠征メンバーに選ばれた。3年生の41年12月末で繰り上げ卒業が決まり、ライバル京大には14-3で勝利した。

 42年2月入営。中国大陸で左手薬指貫通の銃撃を受け陸軍病院へ入院。原隊復帰後、暗号解読要員に転属、中国唐山の司令部で終戦を迎えた、とある。

 48(昭和23)年毎日新聞入社。サンデー毎日→社会部→61(昭和36)年運動部ラグビー担当。79年に退社するまで18年間毎日新聞のラグビー記事を書き続けた。早稲田と明治、バックス攻撃の大西鐵之祐と前へFWの北島忠治両監督の早明戦が満員の観衆を集めた時代。その戦評はラグビーファン必読だった。

 東大が36-16で明大を破った試合の戦評を書いている。66年11月13日付。大正15年に8-6で勝利して以来で、見出しに「昭和になって初めて」。

 東大の勝因に「伝統のハード・タックルとストレート・ダッシュ」をあげ、大型FWの明大に一歩もひかなかった、と書いている。さらに「東大は理科系の選手11人をかかえているため、午後5時過ぎから投光機を使って合同練習をしてきた」。

 77年の早明戦は17―6。「ワセダ無残!ノートライ」。「昭和40年から続いた早稲田ラグビー栄光の記録、対抗戦7年連続優勝、対明大戦14連勝はついにピリオドが打たれた」。

「新婦人」1959年10月号

 池口さんは1955(昭和30)年8月、36歳で結婚した。お相手は、同じサンデー毎日にいた松田ふみ子さん、当時50歳。14歳差である。自立した女性ジャーナリストが、若手ジャーナリストと一緒になり話題になったらしい。夫婦別姓である。

 雑誌「新婦人」59年10月号に写真付きの記事が載っている。「ワリカン夫婦論」。2人で共通して消費するもの、生活費や教養費は2人とも同じ額を負担する。被服費や、友人のおつきあいでお酒を飲んだり、お茶を飲むのは、各自の負担とする、とある。

 池口さんに原稿を書いてもらったことがある。1963(昭和38)年12月5日付社会面トップの記事。

 近代五種日本選手権のピストル競技で、五輪候補選手が鎮静剤とウイスキーを飲んでフラフラの状態でピストル競技に出場、標的に1発もタマが当たらなかったばかりか、係員に抱きかかえられて退場する際、立小便をしたのだ。

 自衛隊朝霞駐屯地内の射撃場に、早大4年生だった私(堤)が写真部山添昭二さん(1980年没50歳)とハイヤーで取材に行っていた。私は翌春毎日新聞入社が決まっていて、運動部でアルバイトをしていた。運動部はこの日全舷で、「記録だけでも写してこい」といわれたと思う。現場取材へ出るのは初めてだった。

 しかし、思わぬ事態の発生に、どう処理してよいか、全く分からなかった。社に上がって、事態をデスクに説明しているとき、全舷の一行が社に戻って来た。

 池口さんが原稿を書いてくれた。ドーピング記事の先駆けとなった。他紙はベタ記事で片づけていたのが、堂々社会面のトップ記事になった。社会部デスクは、大阪社会部出身の藤平信秀さん(寂信、2015年没92歳)だった。

 池口さんは、1990年逝去71歳。松田ふみ子さんはそれから6年後に亡くなった。91歳。

(堤  哲)