2024年2月2日
明大応援団初代団長相馬基さんと相撲記者中澤潔さん
運動部OB中澤潔さんが「相馬基さんとの出会いと別れ」を、『明治大学応援団100年史』(2021年刊)に綴っている。
毎日新聞OB相馬基さんは、明大初代応援団長。1924(大正13)年、東京日日新聞社入社、相撲記者を長くつとめる一方、29(昭和4)年から「編集兼印刷発行人」でもあった。
1908(明治42)年施行の「新聞紙法」(49(昭和24)年廃止)により、新聞の題字下に発行責任者の名前表示が義務付けられていた。記事差止命令は日常茶飯。編集責任者の主幹や主筆に代わる苦情処理係だった。
——相馬基さんとの出会いは、昭和35年の結婚を機に、報知新聞から毎日新聞に移ったときに始まる。…毎日入社当時、相馬さんはすでに定年を過ぎた運動部嘱託の身で、私とは約40年の年齢差があり、親子を飛び越え孫同然だった。節度をわきまえぬ問い掛けにも大人の趣で柔和に応じてくれ、相撲界に精通した知識の数多くを学ぶことができたのは温かい指導のお蔭である。
相馬さんは、1981(昭和56)年9月24日逝去、85歳だった。
中澤さんは運動部デスクだったが、葬儀を取り仕切った。日本相撲協会から伊勢ケ浜理事(元大関清国)や明大応援団員らが列席した。
——私は出棺にあたり「明治大学校歌」の斉唱をお願いした。…秋空に届けと歌い上げる力強い歌声に、参列者は在りし日の雄姿を偲んだ。
応援団の始まりにも触れている。
——東京六大学野球連盟が発足したのは大正14(1925)年。相馬さん卒業翌年だが、野球はもう人気スポーツだった。応援も盛んだった…だが各自バラバラに大声をあげるだけのもので、まとまりはなく騒がしいだけ…そこで相馬さんが一つにまとめるのに音頭をとり、統一化する役目を果たした結果、はじめて組織的に応援する形になった。
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2018年6月、NHK総合テレビの人気番組「チコちゃんに叱られる」で「どうして応援は337拍子なのか?」が取り上げられ、その始まりは明大初代応援団長相馬基さんである、と紹介された。
野球の早慶戦が復活したのは、1924(大正14)年秋。明大の応援団はその3年前の21(大正10)年につくられ、相馬さんが初代団長になった。
野球の早明戦で、相馬さんは「勝った方がいい! 勝った方がいい! 勝った方がいいったら、勝った方がいい!」という声と手拍子の応援を生み出した。それが337拍子の始まりだった。
この話を毎友会HPに書いた。すると明大応援団OB会長で『明治大学応援団100年史』発行責任者の三森勲さん(78(昭和53)年リーダー)から「相馬さんのお墓がどこにあるか、ご存じですか」と問い合わせがあった。相撲記者中澤潔さんに問い合わせると「葬儀から納骨まで私が関係しました」と言って、神奈川県厚木市の弘徳寺が菩提寺であることを教えてくれた。100年史には墓参の写真も載っている。
中澤さんは広島県出身。早大水泳部OBで、現役時代は平泳ぎの選手だった。ことし7月の誕生日で90歳を迎える。
(堤 哲)