2024年3月13日
『東大ラグビー部百年史』から② 2代目キャプテン・久富達夫さん
3月23日から第25回全国高校選抜ラグビー大会が埼玉県の熊谷スポーツ文化公園ラグビー場で始まる。参加32校。実はこの大会、31年前の1993年3月に第1回東日本高校選抜ラグビー大会としてスタートした。参加8校。国学院久我山(東京)が男鹿工(秋田)を30―11で破って初優勝を飾った。秩父宮ラグビー場で行われた優勝戦の戦評は、富重圭以子記者(故人)が書いている。
東大ラグビー部第2代キャプテン久富達夫(元東京日日新聞政治部長)の娘婿久富勝次(2016年没72歳)が岳父のラグビー人脈を活かして、高校ラグビーのセンバツ大会を生んだのだ。「高校生ラガーに秩父宮ラグビー場で試合をして欲しい」という思いを込めて。
勝次は当時、秘書室長から事業本部次長だった。
東日本大会は99年の第6回大会が最後となり、翌2000年から全国大会に発展、参加も16校に増えた。25回大会は全39試合をライブ配信する、と社告にある。大躍進である。
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さて、久富達夫は、『東京大学ラグビー部百年史』に「洛陽の酒価を高めた大人(たいじん)」の見出しで紹介されている。
《この人はあけっぴろげの明るい性格で、学生たちによく酒をのませた。会えば必ず家にのみにこいというので、本郷金助町(きんすけちょう)という地の利もあってときどき大挙して久富家へ押しかけていった。学生たちは久富氏に「親分」の愛称を捧げていた》
これは「東大新聞」の後輩で、元学芸部長・サンデー毎日編集長高原四郎によるが、久富家には常時4斗樽が置かれ、政治部の記者やラグビー仲間、東大の学生らでいつも大宴会だったという。
本郷金助町を地図で調べると、東大竜岡門から南へ300メートルほど、本富士警察署の脇を下がったところ。地の利がよかった。
久富のことは、この毎友会HPで何度か取り上げた。
毎日新聞社にラグビー部があった!大毎にも東日にも(2019年7月28日)
東大新聞創刊100年、毎日新聞で活躍したOBたち(2020年9月1日)
「ラグビーは毎日なんだよ」…同志社、早大、東京芸大ラグビー部のこと(2021年5月12日)
円谷幸吉選手に銅メダルをかけた高石真五郎IOC委員(2017年1月11日)
『東大ラグビー部百年史』も、拙著『国鉄・JRラグビー物語』(交通新聞社刊2019年)からの引用がかなりあり、重複を恐れずに紹介したい。
東大ラグビー部は、1921(大正10)年11月、初代キャプテンとなる香山蕃が三高のラグビー部員ら31人で創部したが、そのメンバーに久富(旧姓:郷)は入っている。一高時代に柔道部、水泳部で活躍、ボートも漕いだ。
22(大正11)年工学部造兵科を卒業したあと、法学部に入り直した。「帝国大学新聞」創刊(20年12月)に関わり、23(大正12)年の関東大震災では、東大構内に詰めかけた避難民3千人の救護にあたった。
25(大正14)年卒業、4月に大阪毎日新聞に入社して、社会部記者。翌26年1月、「大毎ラグビー部」を創部した。関西の実業団チーム第1号だ。
そのファーストマッチ北野中学校戦のメンバーがスゴイ。久富はFWの第一列で、他に松岡正男(慶應義塾蹴球部〈ラグビー部〉の草創期の中心選手。当時経済部長。羽仁もと子の実弟)、「大毎野球団」から野球殿堂入りの投手小野三千麿(慶大)、高須一雄(慶大、のち南海ホークス初代監督)、井川完(同志社大)と、SOで川越朝太郎(旧姓棚橋、京都一商)の4人。HBに鈴木三郎(のちアルゼンチン特派員)、慶應・三高に次いで日本で3番目に創部した同志社ラグビー部OBで、そのファーストマッチに出場している。
TBに中村元一(第1回早慶ラグビー戦の時の早大マネジャー。晴れの特異日11月23日に試合日を決めた。元仙台支局長)。
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高校ラグビーの聖地花園ラグビー場は、英国トゥイッケナムラグビー場をならって天然芝で造成された。1929(昭和4)年11月開場だが、このラグビー専用球場建設を特ダネで報じたのは久富だ。
建設のきっかけはその前年、ラグビー愛好家の秩父宮雍仁親王が橿原神宮参拝のため近鉄、当時の大阪電気軌道(大軌)に乗車した際、「この辺にラグビーの専用競技場を作ったらどうか」と案内の経営トップに話した。脇にいた久富は、即記事にした。社会面に大きく掲載された。
のちに社会人チームNo1になる近鉄の前身「大軌」は、花園ラグビー建設の前に、まずラグビー部をつくる。東大ラグビー部で香山蕃と同期の沢田健一が入社、初代キャプテンとなる。「近鉄中興の祖」と呼ばれた、のちの社長・会長佐伯勇(三高→東大)もラグビー部員だった。
そのファーストマッチの相手が「大毎ラグビー部」だった。出場は若手のBチーム。久富らAチームのメンバーは出場していない。
1929(昭和4)年1月20日(日)〇大阪毎日6-3大軌●
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久富は、同年12月東京日日新聞政治部へ。31(昭和6)年7月デスク。入社6年余、政治部長岸井寿郎(政治部長→主筆岸井成格の父親)の抜擢人事だった。
33(昭和8)年10月政治部長心得、34(昭和9)年6月政治部長。トントン拍子だ。
政治部長時代の活躍ぶりは、牧内節男さんが「銀座一丁目新聞」で「特ダネ号外を出した久富達夫さん」を書いている。
http://ginnews.whoselab.com/131101/tsuido.htm
38(昭和13)年9月編集総務。「政治部長5年はちょっとしたレコード」と追悼録『久富達夫』(1969年刊)にある。
そして40(昭和15)年7月、第二次近衛内閣成立に伴って「内閣情報官」として「貰い」がかかり(『久富達夫』)、8月13日付で退職する。
愛国者の久富は「この時機、ピッチャーからキャッチャーにポジションが代わったようなもの。チームは同じです」と話していた。
すでにこのHPで紹介したが、読売新聞の長期連載「昭和史の天皇」に久富の功績が2つ紹介されている。「内閣情報局次長として、広島に落とされた新型爆弾は原爆であると閣議に報告した」(陸軍は特殊爆弾として戦争継続を主張した)ことと、敗戦の混乱を避けるため「終戦の玉音放送を進言した」こと。
戦後、公職追放されるが、1964年東京五輪の際は国立競技場の場長だった。1968(昭和43)年没、70歳。
=敬称略(堤 哲)