随筆集

2024年3月18日

平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき 30 麻布台—我善坊谷の消滅 (抜粋)

奇数月の14日更新
文・写真 平嶋彰彦
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53537940.html

 昨年(2023年)の暮れ、いつもの仲間たちと麻布台ヒルズを歩いた。

 麻布台ヒルズは森ビルが再開発したオフィス・住宅・商店などの複合施設。1カ月前にオープンしたばかりだった。場所は六本木一丁目駅(東京メトロ南北線)と神谷町駅(東京メトロ日比谷線)に挟まれた広大な区域で、高さ約330メートル(地上64階、地下5階)の森JPタワーを中心に3棟のタワービルで構成される。

 下見をした福田和久君からのメールには、西久保八幡神社も我善坊町のあたりも大きく変化していると書かれていた。この日の集合場所は神谷町駅。西久保八幡神社をお参りするには、それまで桜田通り(国道1号)の鳥居から男坂か女坂を上り、社殿の前に出たのだが、神谷町駅から麻布台ヒルズを抜けて、境内にいたる近道が新しくできていた。

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麻布台ヒルズ。森JPタワーを背景にスマホで自撮りする人たち。麻布台1-3。2023.12.20

 西久保八幡神社は建て替えられ、豪華な威容を誇示していた。社殿の背後には森JPタワーとレジデンスAが聳え立つ。2022年に遷座祭が催されたという。麻布台ヒルズが開業する1年前である。

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西久保八幡神社。左は霊友会釈迦殿。その奥左が麻布台ヒルズ森JPタワー。右は麻布台ヒルズレジデンスA。虎ノ門5-10-14。2023.12.20

 『東京の地名』によれば、西久保八幡神社は麻布台一帯の鎮守として信仰を集めてきた。歴史も古く、平安時代の寛弘年間(1004~12)の勧請とされる。1600(慶長5)年、関ケ原の戦いのとき、崇源院が東軍の勝利と安全を西久保八幡神社に祈願した。崇源院とは、徳川二代将軍秀忠の正室お江の方のことで、彼女の死後、1634(寛永11)というから三代家光の治世になるが、天下分け目の戦に勝利した報謝として社殿が造営された。

 我善坊谷は西久保神社の西側にある窪地で、周りを台地に囲まれたすり鉢の底のような地形である。というよりも、だったのであるが、こちらの変化はもっとすさまじく、街並みはいうにおよばず、地形そのものまで容赦なく地ならしされ、麻布に独特の起伏豊かな景観は見る影もなく消失していた。

 麻布台を歩くのは5年ぶりになる。我善坊谷南側の崖上には、麻布郵便局(旧逓信省貯金局庁舎)があった。この1930(昭和5)年竣工の歴史的建造物は取り壊され、麻布台ヒルズ森JPタワーに建て替わっている。私たちが訪れたときはクリスマスセールの最中で、次からつぎへと観光客がやってきて、タワービルを背景に記念写真を撮っていた。眼の前に広がる未知の風景に過去の記憶が追いついていかない。我善坊谷のあったのは麻布台ヒルズの中央広場のあたりと気づくまでにしばらく時間がかかった。

 我善坊谷もやはり秀忠の正室お江の方と一方ならぬ縁があったとみられる。『東京の地名』は我善坊谷の地名由来をこんな風に書いている。

 1626(寛永3)年、崇源院(お江の方)が死去した。その葬送儀礼が執り行われたとき、この谷に龕前堂(がんぜんどう)が設けられた。そのことから、もとは龕前堂谷と呼んでいたが、やがてその由緒が忘れられ、我善坊谷と訛って呼ぶようになった。龕前堂は、火屋(火葬場)の前に建てた野葬礼の式場で、位牌や香花、霊供、茶湯などをかざり、その前で読誦、焼香のおこなわれる建物のことである。

 横関英一も『江戸の坂 東京の坂』で、ほぼ同様の説をとっている。すなわち、この谷は徳川二代将軍秀忠の夫人浅井氏の荼毘所のあったところで、その時の仮堂を龕前堂といったことから、がぜん坊谷と通称されるようになったと述べている。荼毘所は火葬場のこと。浅井氏は崇源院の旧姓で、父親は浅井長政だった。織田信長から豊臣秀吉さらに徳川家康と続く天下一統で混乱する時代に弄ばれ、数奇な運命をたどった女性である(註5)。

 戸田茂睡の著作に『紫の一本』がある。刊行されたのは1682(天和2)年で、五代将軍綱吉の時代である。武家の陶々斎と遁世者の遺佚なる人物が江戸の名所旧跡を訪ね歩くという趣向であるが、この2人は架空の人物で、どちらも戸田茂睡の分身とされる。

 江戸名所旧跡の項目のなかに「谷」があり、その冒頭に「がぜぼ谷」が出てくる。

 がぜぼ谷、麻布市兵衛町の近所、上杉弾正大弻綱憲の中屋敷の下也、此谷に坐禅する出家有、然ば坐禅房谷と云を、いひよきまゝにがぜぼ谷と云うにやと尋侍しに、坐禅する出家は此頃の事也、がぜぼ谷の名は久しといへり、由緒きかまほしきに、がぜぼ谷、麻布市兵衛町の近所、(中略)此谷の近所に得船入道といひて、幽に住ひするもの有しを尋ねたるに、折節庵にあれり、此入道もとは渡辺氏なり、世をのがれたるは、渡りに船を得たる心にて名つきたるとぞ、久敷くてまみえたれば、(中略)移り替る世のさまを嘆き、遠くは三河にて先祖の働き討死の合戦、近くは関ケ原大阪にて、親祖父のかせぎ(中略)など、互に語り合て袖をしぼる。(後略)

(中略)

 2012年に我善坊谷を撮った写真がある。このときは永井荷風の偏奇館跡を確かめるのが目的で、私一人の街歩きだった。『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫)の取材で市兵衛町を訪れているが、偏奇館の正確な場所はつきとめられなかった。

 偏奇館があったのは現在の六本木1丁目6番地。道路脇の植え込みに旧居跡の文学碑があるのを見つけたが、目の前に地上32階・地下2階の泉ガーデンタワーが覆いかぶさるように聳え建ち、殺風景このうえなかった。我善坊谷も『昭和二十年東京地図』で写真に撮っているのだが、せっかくなので、改めて歩いてみたくなった。というのも、その後に読んだ『断腸亭日乗』の1919(大正8)年11月8日の条に、次のような記事があるのを思い出したからである。

 十一月八日。麻布市兵衛町に貸地ありと聞き赴き見る。帰途我善坊に出づ。此のあたりの地勢高低常なく、岨崖(そがい)の眺望恰(あたか)も初冬の暮靄(ぼあい)に包まれ意外なる佳景を示したり。西の久保八幡祠前に出でし時満月の昇るを見る。

 荷風が偏奇館に転居するのは翌年5月23日。『断腸亭日乗』には「この日麻布に移居す。(中略)麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ」とある。偏奇館は1945(昭和20)年3月9日の東京大空襲で焼失するが、荷風はそれまでの約11年をこの偏奇館で過ごした。

 荷風は市兵衛町の貸地を目で確かめた帰りがけ、我善坊谷をへて、西久保八幡神社の前に出た。我善坊谷へ下りる道は稲荷坂とも我善坊谷坂とも呼ばれた。斜面の縁に沿って開削された坂道で見晴らしがよく、初冬特有のもやが立ち込める我善坊谷の夕景を「意外なる佳景」と称讃している。

 それより93年後の我善坊谷の眺望も撮影した(写真略)。『戦災焼失地図』(正式名は『コンサイス東京都35区区分地図帖 戦災焼失地区表示』)をみると、この谷は1945年の東京大空襲でそのほとんどが焼失したことが分かる。したがって写真にうつっているのは、戦後に焦土から復興した街並みということになる。画面手前が我善坊谷(旧我善坊町)で、重厚な瓦葺屋根は書壇院(吉田苞竹記念会館)。画面奥の左端に遠望されるのが、旧逓信省貯金局庁舎で、先に書いたように、現在は麻布台ヒルズ森JPタワーが建つ。

(以下略)