2024年4月11日
「水割りおじさん」将棋観戦記者・加古明光さんの思い出
第82期将棋名人戦が10日から始まった。藤井聡太名人(21歳)の初防衛戦で、豊島将之九段(33歳)が挑む。
将棋名人戦で思い出すのが、65入社の加古明光さん、加古ちゃん(2004年没63歳)だ。将棋観戦記者。「水割りおじさん」と、親しみを込めて呼ばれていた。ウイスキーの水割りが大好きだった。
著書『米長邦雄ともに勝つ』(毎日新聞社97年刊)は新聞連載をまとめたものだが、米長さんは「あなたが禁酒するなら、連載をお引き受けします」と言って、「小池唯夫社長立ち会いの下に禁酒を誓った」と書いている。訃報に「肝硬変」とあったから、以って瞑すべしだったか。
加古ちゃんは、初任地が長野支局。私(堤)のバイクの後ろに乗ってサツ回りをした。そのあと松本支局。信州大学の学生運動を取材中、投石が頭に当たって、頭蓋骨骨折の重傷を負った。その傷跡、頭がぺコンと凹んでいた。
学芸部にあがって、《将棋と音楽が私の担当だ。音楽は、おカタイ、カラヤンやモーッアルトでなく、歌謡曲からロック、ジャズまでのいわゆるポピュラー分野。だから、聖子チャンや伊代チャンを聴いた翌日、将棋会館の盤側で観戦記取材にと、しかつめらしく座っていることもある》。日本レコード大賞の審査員を長く務めた。
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社史『「毎日」の3世紀』に、名人戦が27年ぶりに毎日新聞に復帰した経緯が綴られているが、大山康晴十五世名人から「毎日新聞で名人戦を買ってくれませんか」という電話があった。それを受けたのが加古ちゃんだった。
将棋名人戦は1937(昭和12)年から毎日新聞主催で始まり、第9期で朝日新聞に主催者が移った。それが第36期で毎日新聞に戻ったのだ。現在は、毎日新聞と朝日新聞の共催。
その第36期は、名人中原誠に森雞二八段が挑んだ。森八段は対局前夜にパンチパーマを剃髪してツルツル坊主頭で現れたのだ。
「正直なところ、その時の私の驚きを、どう表現していいか、いまもわからない。アゼン、ボウゼン、おそらく私はポカーンとしていたに違いない」(「将棋世界」78年5月号)
立ち会いの大山十五世名人は「坊主が2人できちゃった」と、同じ立ち会いをつとめる花村元司九段の禿げ頭を見て言ったという。観戦記を書く作家の山口瞳さんは「驚いたなァ、こんな例、他にあるの?」と尋ねている。
剃髪が話題になったうえ、森ピヨピヨ八段が第1局と第3局を制してリード、「新名人誕生か」と盛り上がりを見せた。しかし、中原名人は●○●の後、第4局○、千日手を挟んで○○。結局4勝2敗で防衛した。
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米長さんは、1993(平成5)年第51期名人戦で、中原名人をストレートで降して初の名人位を獲得した。7度目の挑戦、49歳11か月での獲得、「50歳名人」は、最年長記録である。
新宿・京王プラザホテルで行われた名人就位式・祝賀パーティー。
加古ちゃんは書いている。「この就位式は2,000人近い参加者で、おそらく空前にして絶後であろう。政治家(屋)が資金集めに行う義理パーティーではない。自らの意思で出席した人達が、米長の「五十歳名人」を祝った。20余年の将棋担当記者生活で、こんなに胸に迫ったことはない」(『米長邦雄ともに勝つ』あとがき)
会場に、新たにA級に昇級した羽生善治四冠がいた。米長さんは舞台上の挨拶で「来年アレが出てくるのではあるまいか」と、羽生さんが挑戦者になることを予測。翌年の第52期名人戦は、初挑戦の羽生さんに2勝4敗で敗れ、名人位は1期で終わった。
加古ちゃんは、23歳で9人目の名人誕生を、毎日新聞「ひと」欄で取り上げている。
しかし、20歳10か月、藤井聡太名人の誕生、AI時代の将棋ブーム、藤井フィーバーを、加古ちゃんは知らない。
「水割りおじさん」なら、この現象をどう分析しただろうか。
(堤 哲)