2024年5月31日
「東大ラグビー部百年史」から⑤(最終回)
64年10月10日皇居前広場で聖火を手渡した藤岡端(ただす)さん
『東京大学ラグビー部百年史』OB銘々録にこうある。
《高師付属、静岡高校、東大とサッカーで活躍、大学の終わり頃からラグビーに転向したが、出足がよくドリブルがうまかった》
東大教授・言語学者藤岡勝二(1872~1935)の2男。東京高等師範付属は現筑波大付属中・高校。父親の思い出に、ローマ字を覚えさせられたことを綴っている。
東大ア式蹴球部(サッカー部)のOB名簿、昭和6年に名前があり、ラグビー部百年史には昭和9年卒業に載っている。
公式試合出場メンバー表には、1933(昭和8)年度の全7試合にFWフランカー(FL)として出場している。東京商大(現一橋大学)に20対3で勝ったが、ライバル京大をはじめ早慶明立法に全敗した。
《ドイツではヒトラーが独裁政権を確立し、満州の関東軍は熱河作戦を開始して河北省に侵攻した。国内では4月から5月にかけて京大の滝川幸辰教授に辞職を迫る「滝川事件」が起こり、思想弾圧が深まった。5月15日付『帝国大学新聞』も「脅かされる『学の自由』」の見出しで、言論の危機を訴えた》と、時代背景を書いている。
端さんは、静高時代に「社会科学研究会発覚に関する件」に関連して、10日間の停学処分を受けている。
さて、東大を卒業した端さんは34(昭和9)年大毎に入社。《天津、上海各支局に勤務した後、南方に従軍。昭和18年漢口支局長、政治部、東京本社運動部を経て、同26年論説委員、同28年日本初の民放テレビ本放送を開始した日本テレビに出向した》とある。
日本テレビでは報道部長→編成局次長。56(昭和31)年10月に毎日新聞に戻って東京本社運動部長。
64年東京五輪の取材配置表では、オリンピックに携わったOBとして高石真五郎(IOC委員)久富達夫(国立競技場会長)大島鎌吉(日本選手団長)南部忠平(陸上競技監督)村社講平(マラソンコーチ)藤田信勝(組織委接伴部委員)北沢清(日本陸連国際部長)小沢豊(日本陸連管理部長)とともに、組織委競技部長として名を連ねている。
聖火リレーの責任者で、ギリシャで採火、世界の主要都市を回って国内では沖縄と札幌から各2コース、計4コースで聖火をリレー。開会式前日に皇居前広場につくられた聖火台で1つに集火、開会式当日64年10月10日、藤岡端さんがその皇居前聖火台でトーチを受け取って、この日の第一走者に手渡した。
国立競技場まで6.5㌔、男子7人・女子2人が運び、競技場入口で国内10万0713人の最終走者坂井義則君へ。午後3時9分50秒、聖火台に点火した。
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国会図書館の検索で思わぬ資料が見つかった。月刊「バドミントン」1961年11月号に「日本バドミントン発達史」東京の創生時代に、1947(昭和22)年4月現在の登録会員に「毎日新聞」があり、その代表が藤岡端とある。
同年6月29日に池袋の立大体育館で行われた東京代表新人選抜大会の男子複では、岩本重雄・尾野勇組と大沢勇之助・染谷光男組の毎日新聞同士の決勝となり、岩本重雄・尾野勇組2対1で勝って初優勝したという記録が載っている。
4人とも写真部員ではないだろうか。
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東大ラグビー部でキャプテンを務め74年入社の伊藤芳明さんによると、「その後東大ラグビー部で毎日新聞の記者になった人はいない」という。
とりあえず『東京大学ラグビー部百年史』からのOB列伝は最後としたい。
(堤 哲)